熊の敷石 (講談社文庫)

熊の敷石 (講談社文庫)

美しげと美しいはちがうだろ?

機内誌やグラビアが売りの雑誌などでよくみる紀行エッセイと『熊の敷石』のちがいは何なのか。 『熊の敷石』が小説であるためには、サンモンミシェルの絶景や、町の地名の由来、そうしたもの以上の何かがなければならない。語り手の「私」と友人ヤンの快くも、とらえどころのない関係がこの小説の小説たるゆえんだったのかもしれない。ところが本来であればテーマであったであろうこの要素はテーマであることに失敗している。  フランスを訪れていた「私」とヤンは再会し、限られた時間の中でも充実したときを過し、2年のギャップを感じさせないほど、冗談もいい合える。ところが、ヤンが撮り、「私」にみせた数枚の写真のどれひとつをとっても、背景にある悲惨さや重さをヤンと同じように感じられない「私」は違和感をもつ。(飽くことなく書かれ続ける日本文学的感傷!)「話すことの必要のないことをなんとなく話させて、傷をあれこれさらけさせているのではないか」と。ところがヤンと「私」は気まずくなることもなく、こうした違和感は読者からすれば的外れにしかうつらない。この的外れな取り越し苦労をこの自称小説から取ると、アンニュイな紀行エッセイでしかない。  冒頭で「私」がみる夢。眼球のない少年と少年の抱く熊のぬいぐるみ。余計なおせっかいという意味の熊の敷石ということば。すべて熊のモチーフが共通しているが、これらの挿話は物語の構成部分として何の機能も果たしていない。終りで過去の歯痛と現在の歯痛が重なる部分も意味不明。  文学の匂いのする、気のきいた挿話を美しげなことばで綴ったものを小説として提示する人がいて、小説として受け取る人がいる、という状況は思考と想像の欠如以外の何者でもない。いったいこの人たちはいつになったら美しげなフィクションと美しいフィクションのちがいに気がつくのだろう。