世の中は移り変わっています、今や、女性は顔に覆いをかけ黙って居れと言われた時代とは違い、女性も多くが主導権を握るようにな り、食べ物に至ってはなんでも食べるご時世です。それを恋愛に限っていつまでも旧約の律法のままでがんじがらめにするのはおかし いと思います。
若い子たちの性の解放はちょっと行き過ぎかなと感じますが、
性を楽しむことのできないクリスチャンの中に気持ちを患ってしまう傾向が顕著にあることも指摘できると思います。
仲良しのクリスチャンが夫との性生活に後ろめたさを感じると言っていました。
まさに彼女が私に彼が告白してきた事を牧師に継げ口をした張本人なのですが…
ここでまた旧約を持ち出すと混乱してしまうかもしれませんが、
伝道の書の中で「日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。こ れはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。 9章9節」と言われて います。
夫との生活を楽しめないのは、それを「罪」と思い違う気持ちが彼女の中にあるからです。
性とは子孫存続のためのだけの手段ではないのです。
ただし、私はすべてを楽しめばいいと思っている訳ではありません。
安易な性の接触は、やはり聖なる性への冒涜であり、
身を滅ぼすに足るものだと思っています。
出来ることなら、私のように40年間も彷徨わずに、世の中にいるたった一人の自分の分身と出会い、そのたった一人の人との関係 において人生を楽しんで欲しいと若い世代の人には願っています。
酒をたしなむのは罪ではありませんが、酒におぼれてしまっては罪に陥ります。
快楽に溺れてしまっては、その身を滅ぼすことになりかねません。
愛する、愛されるの判断基準を間違わないで欲しいと思います。
※制限字数を超えたので分割して投降しました。
ちょっと長い話になりますが、お時間のある方はお付き合いください。
私は三度目の離婚後新しい恋人が出来ました。彼が私に愛の告白をしてくれるまでの40年間、私は「愛される」と言う事を「必要 とされる」ことと混同して考えていました。必然的に愛されようとする意識からすべての事に必死になってしまい自分を見失ったり、 心に余裕が無くなったり、許容量を超えた働きをするようになり、すっかり疲れ果ててしまうのでした。結果、心も患い子供たちにも 大変さみしい思いを味あわせてしまいした。けれども40歳の私の前に現れた彼の言葉はそれまでの男たちの「君に○○○をして欲し い。」という要求ではなく、「私はあなたの為なら命も捨てられる。」という言葉でした。
彼はクリスチャンではありませんでしたが、その言葉にウソ偽りがないのなら、果てしなくキリストの愛に近い愛で私を愛してくれ る人に出会えたのだと私は実感したのです。それはまるでさまよい続け約束の地にたどり着くまでに40年間かかった神の民の旅にも 等しいと思わされました。
けれども当時私の通っていた教会は離婚直後の母である私に恋愛などは認めず、別れないのなら破門もあり得ると押し迫って来たの です。
私は一度は彼の事を諦めかけましたが、最終的に教会を捨てて彼と生きていく道を選びました。
クリスチャンの世界では離婚や、婚前交渉、ノンクリスチャンとの恋愛、シングルマザーやシングルファザーの恋愛等以ての外、そ れはイコール【罪】であるという意識が根強くあります。
私も離婚は避けられるならするべきもではないと思っているし、世の中の性の乱れはそれは『乱れ』でしかないと思うけれども、自 分自身が神から与えられた道を選択していく事は自分と神との関係において選別していくべきもので、他のクリスチャンにとやかく言 われたり言ったりするべき問題ではないと思います。
ペテロが個人的に神から言われたように、他の使徒たちの目には汚れたものきよくないものと映っても、神から「そうではない」と 言われたのならペテロは拒むべきではないでしょう。
使徒行伝の10章でしたね。
思い出させてくれてありがとうございます。
彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。すると、天が 開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。 その中には、地上の四つ足や這うもの、また 空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚 れたものは、何一つ食べたことがありません」。 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言っ てはならない」。
旧約聖書の中で神は「私が聖なる者であるから、あなたも聖なるものでありなさい。」と促します。多分レビ記の中で食べて良い生 き物(きよいもの)食べてはいけない生き物(汚れた生き物)の区別が明記されていると思うのですが、
ペテロは多分その神の言葉に忠実にきよくないもの、汚れた物を食べずにきたんでしょう。でも、神はここに至って『きよくないの もの、けがれたもの』を差出してあえてその『きよくないもの、汚れた物』を清くないなどと言ってはならない。とペテロに仰ったん ですね。
>神様が自分が与えるものはすべて聖められているから食べろっていう箇所…
旧約だっけ?
使徒の働きの10章のペテロの夢の個所しか思い浮かばないや^^;
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(15節)
旧約で思い出したのは、エリヤが烏の運んでくる肉と川の水で生き延びたってとこ(笑)
ほんと毎日読んでないとダメだな~。
誰か詳しい人、教えてくれないかなぁ。
2010年03月22日 00:17 by びびんば7
キリストの系図ですよね。
あれって何が意味があるのか分かりませんでしたけど、
初めての息子を授かった時、
あまりの状況の悪さに周囲からの無言の圧力がすごくて悩みましたが、
そんな私の脳裏に浮かんだのがあの顔も知らない人たちの名前の羅列でした。
あの人たちの一人も欠けていれば、
キリストは産まれてこなかったのだと。
私が『この子』を生まなければ、
100年後に救世主が産まれないのかもしれないと、
変な?決意をしました。
今はあの訳の解らない箇所に励まされ息子を産んだ事を良かったと思っています。
聖書の言葉って本当に生きていて、
いつ心の奥底でどんなタイミングで息づいてくるか解らないんですね。
今一生懸命探しているのは、
確か旧約に出てくるなんとかって預言者が、
お腹をすかしているときに口にしてはいけない汚れた食べ物が与えられて、
でも神様が自分が与えるものはすべて聖められているから食べろっていう箇所です。
全然どこだったか思い出せません。
やっぱり聖書は毎日読まないとなあ~~~~~
>キヨハラさん
信仰を持つ少し前、夫にこの話をしたらローマ人への手紙を勧められました。
今度こそと思い、頑張って読みましたがあまりよく理解できませんでした。(笑)
その後、そのことを牧師に言うと、「じゃあ、まずルカの福音書を読んでみて」言われて、やっとちゃんと読むことができた次第で す
クリスチャンになってもわからないことだらけの聖書ですが、読むたびに新しい発見があって面白いですね。
あ、マタイの1章が面白いことに気付いたのは旧約を読んでからでした。
2010年03月15日 14:57 by びびんば7
>びびんば7さん
あの、最初に名前がひたすら出てくるっていうのが、新約をとっつきにくくしていますよね。私は、まさにそれで毎回新約を読むこ とに挫折しています。
2010年03月14日 18:33 by キヨハラ
中学生になる時に宣教師さんからいただいた聖書を6年間読まずにいました。
大学生の時、きっといいことが書いてあるのだろうと、マタイの福音書を開きました。
舌を噛みそうな名前がたくさん並んでいて、1章を読み終えた時、早くも躓きました。(笑)
その後聖書は本棚に置かれたままになってしまいました。(この時からクリスチャンになるまで12,3年間、一度も聖書を開きま せんでした)
聖書が面白いと思うようになったのは信仰を持って読み始めてからですね。
今でもわからないことだらけですが、日曜日の礼拝の中で語られるメッセージが助けになっています。
2010年03月12日 22:58 by びびんば7
レビ記、民数記、申命記はいろんな説明箇所で訳ワカラン?
「神は愛なり」を式に表すと神=愛。
。。。そういう角度で読むと
聖書面白いんですね^^
なるほど!
ありがとうございます♪
レビ記、民数記、申命記は訳ワカランでしょう?
まあ、随所に綺麗な言葉は散らばってるけど、
ようするに法律とか、人口調査とか、律法とかの説明箇所だから。
私は読み始めてアブラハムが妻以外の女と子供が出来て、
妻と愛人の確執が書かれてるところで感情移入してしまって、
泣きながら読んだよ・・・(笑)
「神は愛なり」は式に現わすと神=愛であって、
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
の愛も=神と読める訳で、
いろんな角度から読むと聖書ってやっぱり面白いと思うよ。
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