俳句の成立について 歌論6
俳句の成立について 歌論6
一般的に俳句の77を付ければ歌になると考えている人が多いようです。
でも、歌は詠む言い、俳句はひねるといいますね。
二つに関連性は無いとはいえないのですが、同時に違うものはであるということは自明の理です。僕の作る俳歌ではあまり、その違 いを強調したくは無いのですが、ある程度俳句の成立について知るということも必要だと思われます。
平安末期から鎌倉時代に入ると、歌の自体が遊びの道具として使われるようになります。
これが連歌といわれるものです。
上の句と下の句に分けて別々の人が詠むというやり方です。曲水の宴などがその代表的なやり方だと思います。
この時期公家たちの力が衰え、武士や町民階級が少しずつ育っていきます。
特に室町時代に入るとこの傾向が顕著になります。
彼らは実力だけではなく、文化的な部分でも活躍しようとします。でも、歌のように雅語を使い、さまざまな技法を駆使し、雅な歌 を歌うということは出来ませんでした。そこで登場するのが連歌士といわれる人たちです。
彼らは多くの人たちの前で上の句を詠み、その後に参加者たちが下の句を詠ませるということをやりました。これだと、多少教養が 足りなくても出来るということで大いにはやりました。
でも、武士町民階級の人々は独自の歌を作ることを標榜し始めます。
それが俳諧連歌といわれるものです。俳諧歌とは、万葉集の中にも収録されている、諧謔(ユーモア)を含みおどけた歌という意味 です。これならば、自分たちの使う言葉、日常の中の可笑しみ、自分たちの素直な感慨を込めることが出来る。ということです。多く の俳諧連歌の宗匠たちが生まれ、独自の俳諧連歌を目指し始めます。
宗匠がひねった発句(連歌では上の句)に参加者たちが付け句(連歌では下の句)を付けていくという方法です。表八句の一句に 百句の付け句を付けるということもあったそうです。一晩中、いや一日中このようにして遊んだと思われます。でも、俳諧連歌の出来 具合は宗匠のひねった発句の良し悪しで、楽しい場にもなり、そうでもなくなります。また、遊びの要素が強すぎて芸術としての欲求 にはなかなか答えにくかったようです。
2010年05月09日 09:47 by 春秋のブログ
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