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(しようそいったいろん)
【時間】
時と間。時間は分かる。然し時は分からない。或時間を観ていても、時は外在す。時は内在しているとは言えない。すなわち《時》は要素である。
【空間】
空と間。空間は分かる。然し空は分からない。或空間を観ていても、空は外在す。空は内在しているとは言えない。すなわち《空》は要素である。
【物質】
質と物。物質は分かる。然し質は分からない。或物質を観ていても、質は外在す。質は内在しているとは言えない。すなわち《質》は要素である。
《時・空・質》是すなわち主(あるじ)を構える三要素である。空は質を有し、質は時を与す。主(あるじ)は唯これを感ずるのみ。《無形有質の真理》
【主観】
可能性(二間一物)と私。時間・空間・物質は観ずることが出来る。然し私は分からない。観ずることが出来ないので、私は内在しているとは言えない。すなわち《主》は《時・空・質》と同列の存在である。(《時・空・質》そして《主》を合わせて四要素。)
『四要素を一体とし、我は無の中に在る。』
※二間一物
(にかんいっぷつ)
⇒時間・空間・物質
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(0∞1)
『可能性の出来した出来事と私の予測との間には、とび越えることの出来ない何かがある。』
信仰とは可能性(カオス)に屈すること、美しく言えば要求を神に委ねることである。宗教の起源は未来に対する不安が出来したとき、即ち人類が、認識上の世界の拡散した様々な情報を調和的に纏め、自然の現象として依存する習慣を持ち、またこの習慣から予測する『未来』と言う概念を創り出し、その未来を打ち砕く可能性について不安に感じたときである。
『宗教を知る民(もの)は信仰に溺れず、また科学を知る者もこれに溺れる事はない。その彼らの基礎は哲学であり、哲学の背後には観る者のいない真理がある。客観的な真理など、ない。そう言う意味での真理を誰もが面白おかしく踊って探すのである。』
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実際私は物質を見ているのであって物質を知っている訳ではないし、私は物質によって私たらしめられている訳ではない。とすると物質とその動き、つまり物理現象の究極無限的な分析を行い高精度自意識確定論(自循論)に至った後に、不確定性原理を無視し、抑の歪曲の根源である数学・物理学を一蹴して得られる自意識の境として還元された質は、この裏側の絶対無との線引きである。現に君は物理学をやる前に君意思である。
理解しやすく言うならば(0∞1)に記されたように『0』は0次元(点)であり要素の質、『1』は不確定性原理を超えて質に至るまでの無限の物理的意識である。数学・物理学は自意識を自意識たらしめる質に至るまでに純粋なる理性によって棄却される学問であり、哲学は数学・物理学を扱いつつも、これを一蹴できるので質を得られる。
此処で新たにわかったことは0次元(点)は絶対無の中に膨張すると言うことである。但しこの発想は間違いで、抑科学が犯した過ちは自意識が自意識を超えられない事実を握り潰して宇宙を創造したことである。つまり科学は厳密には誤りであり、絶対無すなわち神の道具に過ぎない。絶対無と存在が一つである世界こそが真理である。