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"神"について

文化も場所も違うのに宗教は存在しますよね。
それは人間の本質が神を必要としているか、
もしくは神が実在するからだと思います。


あらゆる宗教における神を比考しながら、神とは何なのか、
又は神はどのように存在しているのかを一緒に考えませんか?

2010年06月16日 04:24  by 

コメント一覧 82件中、31~40件表示

  • そのお考えには一つの理(reason)と二つの問題点があるように思えます。


    一理あるというのは、始原的な宗教の成立にはそういった汎神論的発想が含まれているためです。落雷・地震などは畏怖の対象であ るとともに、恵みの雨や大地の豊穣さは我々を豊かにします。
    このような理由で、太陽信仰は世界中に散在し、太陽はエネルギーの塊みたいなものですよね。太陽の光が無くなれば、我々は絶滅 を待つしかないでしょう。


    しかし、ここで問題が生じます。
    太陽は我々のために照っているのか、というものです。

    太陽が光っているのは、我々のためでなく、太陽自体勝手に燃えているだけですから、意志なんてものは当然ありませんよね。太陽 に限らず自然環境というのは意志を持っていないわけですから、そのエネルギーは上述のように我々にとって災害にも恩恵にもなるわ けです。
    我々はそれに感謝したり拝めたりしなければならないのでしょうか。

    こういうことを考えてみましょう。

    例①
    男の子たちが野球をしていました。
    バッターが盛大なホームランを打ちました。するとそこに、逃走中の泥棒が偶然通りかかりボールにぶつかって気絶し逮捕された。

    例②
    男の子たちが野球をしていました。
    するとドロボーという声が聞こえたため、その泥棒を追いかけました。
    バットとボールをもっていた子が、逃げる泥棒の背中に打球をぶつけ、それにより動けなくなった泥棒は逮捕に至りました。

    この二つのうち、被害者が感謝すべきなのはどちらでしょうか。もちろん後者ですね。前者も一定の感謝はされるでしょうが、善行 と言えるのは後者です。それは、後者には泥棒を捕まえる(=為善)意志があったからです。

    例えば太陽がいかに我々にメリットをもたらそうと、我々がそれに感謝しなければならない理由は無いし、神と呼ぶような理由も無 いのです。それを避けようとすれば、人格をもった神として、意志があることを前提にしなければならなくなります。


    さて、二番目の問題点として、人間はどこに含まれるものであるか、という問題があります。人間は確かに物理法則に従う存在では ありますが、他方で運動を一定範囲自分自身の意志で定めることができます。そして、自分の意志があるからこそ善行が可能なのであ り、自然的エネルギーよりも人間の方が善な存在ということにならないでしょうか。

    2010年08月06日 14:43 by えんじょーじ

  • えんじょーじさんの考えがとても深いので感銘を受けました!


    確かに、聖書などで表されるような人格神が神だとすると、存在しないことになりますね…



    けれど私の定義する神の存在は、エネルギーそのものであったり、もしくは集合無意識なのです。

    ブッダも似たような結論にたどり着いたと聞いてます。



    そのような汎神論的な神もやはり普遍的に存在しない、ということになっちゃうのでしょうか




    浅慮で申し訳ないですがもしよければ御返事ください(*゚ー^)





    それとちょっと脱線かもですが
    自然法から逸脱した人間が暮らすには、神はもっとも優れた手段であると考えられます。
    真偽は別としても、信じることの恩恵は計り知れませんよね。
    きっと、必要だから信じるんだと思います。科学と同じです。

    2010年08月06日 07:46 by

  • えんじょーじさん、
    いままでの私の質問への返答、ありがとうございました!

    これから私が読むであろうパスカル・デカルト・スピノザ・ロック・ヒューム・カント、 彼らの神に関する過去の思想、論証より も、
    えんじょーじさんの今の思想のほうが、私にとっては有意義であったと思います。
    なにせ、キリスト教の神についての論証(こんなに興味深い題材はないでしょう?)を、えんじょーじさんの生きた言葉で説明し、 疑問にたいして返答してくださったのですから。


    私としては、この場を占領してでも、もっとお話をしたかったのですが、
    私の理解力不足、勉強不足が、えんじょーじさんに、しなくてもいい多大な労力をおわせてしまったように思います><。理解する ことができなかったのが本当に残念です。
     私の無学の母親に「一般相対性理論」を説明するようなものでしょう。
    いつまでも子供の気分で、「なんで?、どうして?ちがくない?よくわからない!」
    なんて言っててはいけませんねw



    ちなみに今、デカルト、スピノザや他の哲学書が会社の私の棚を飾っています。ヒュームはすごい興味深いし、 ロック、彼もなか なかどうして分かっていらっしゃるようでw、偉大なるカントの思想を理解するのはいつのことに
    なるのかわかりませんが、えんじょーじさんが勧められた書物は、挑戦してみたいと思います^^。

    でも、信仰については、本を読むのではなく、実際に教会に足を運んでみるのが一番なのかもしれませんね。


    ありがとうございました。


    2010年08月03日 11:27 by


  • さて私は、私の説に対する反論や疑問をここでストップしてもらうことを提案したいのです。なぜなら私は余りにも長々と自分の話 ばかりをして、他の方々の議論の場を占有し続けることになったからです。

    mikaelaさんの鋭い質問と、他の皆さんの我慢のおかげで私は自分の考えを深めることができました。そしてこの考えは、自 分がまた勉強を進めない限り何度質問を受けてもしばらくは同じことを繰り返して言うと言うことになりかねないのです。

    もし、神を信じたい、と思うのではなく、神とは何かということを考えたい、と思うのであれば、悪いことは言わないので一度、パ スカル・デカルト・スピノザ・ロック・ヒューム・カントあたりの近世の哲学者の宗教に関する著作を読むことをお勧めします。

    実に長々とこの場を借りてあれこれと言ったことをお許しください。

    2010年08月03日 09:43 by えんじょーじ

  • >実証、論証されたものを・・・

    ただし、実証されたものの方がより判断の信頼性が高まり、されていないものを信じる場合には、判断の信頼性が低いというリスク を認識した上で敢えて選ぶ理由がなければならない

    >きっと聖職者の中には・・・

    神を信じていると言う点に限れば、聖職者でなくとも篤信な人というのはいますから、「聖職者という職業」に限らず、「信仰上の 神」は「信心深い人にとっての神」と言うのが最も的確です。


    >えんじょーじさんの・・・

    この質問は後半に曖昧さがあります。

    ①キリスト教の神について記述されたある文章に矛盾がある、これはどういった文言なのでしょうか。

    例えば、「キリスト教の神を、フランス語でtheGodという」と言うような命題は明らかに誤りであり矛盾しています。英語な のですから。
    別の例としては「神は人間である」と言う言明も、誤りであり矛盾です。

    私に尋ねられているのは後者のような形だと予想します。前者は神の呼び方と言う人間の問題であり、後者のように神自体の問題で はないですから。
    後者に関する論証を私がし、それが文章の中で命題と神の定義の間に矛盾が生じるとわかった時、

    ②「記述された文章に矛盾があるということの論証」は神の存在を論証することとまったく関係がないのか

    と言う再反論が生じますが、これはすでに上でいったように、「神は人間である」と言う命題が矛盾であるとわかった時に、この論 証は神の存在や性質と関わってくるのですから、その論証が(英語とフランス語の例のような)神に向かってないものでない限り、部 分的であれ根底的であれ、神の存在に対する打撃になるわけです。

    何度も何度も言うように、神は無限で万能で完璧(無謬)です。矛盾している状態は、どちらかが確実に誤っているからため、完全 ではあり得ません。
    「明日は一日中雨で、一日中晴れている。」と言う命題は矛盾しています。実際の天気が晴れならば前半が、雨であれば後半が、晴 れ時々雨であれば、両方合わせて誤りです。

    このように、神は無限・万能・無謬であると定義されるのですから(それ以外の定義ではただの人間と量的差はあっても質的には同 じ)これらのうちどこか一か所でも否定することができれば、全てが成り立たなくなります。
    そこで私は「神は悪が為せない」という論証により神の万能を否定したつもりなのです。

    2010年08月03日 09:17 by えんじょーじ

  • 実証、論証されたものを疑うのも信じるのも、人それぞれ、ということですね。

     きっと聖職者の中には、神を疑っている人、信じている人、確信している人、いろいろな聖職者がいらっしゃるんでしょうね。( 疑っている人は聖職者とはいわないですかね)


     えんじょーじさんのやられている論証は、キリスト教の神が存在しないことの論証ではなく、キリスト教の神について記述された ある文章に矛盾があるということの論証ではないですか?

    2010年08月03日 01:43 by

  • 聖職者の神と哲学者の神とは別のものではありません。

    二者の間の神(に関する捉え方)が異なっているということです。
    哲学者の神がそれを認識し、捉えるために論証を使ったのに対し、聖職者は信仰することによってそれを認識しようとしました。
    しかし、何らかの証明(哲学者の場合は論証-神が目に見えないものであるため)を経て認識されたものでなければ、普遍性をもち ません。普遍性をもたないと言うことは、その「事実」を他者に要求できないと言うことです。

    例えば、私が青い色が好き、という信念は、私が好きだと思っているからという理由によって他人に要求することはできませんよね 。
    したがって、神がいると信じることはできても、神がいると私が信じているからと言って、他人にまで信じるべきであるということ はできません。

    しかし、普遍化と縁がないということは、それを信じないことを強要されることもありません。青い色が好きだという心内的事実は 、私が嫌いにならない限り、つまり私自身の意志によってしか変わることがありません。

    したがって、神がいないことが論証された後にもかかわらず、それでもなお何らかの原因によって信じたい人がいるなら-私自信は 存在しないことがわかっている存在を信じることはありませんが-それは個人の自由にゆだねられています。

    2010年08月02日 20:02 by えんじょーじ

  • えんじょーじさん、くわしいご説明、本当にありがとうございます!
    文章がまとまってわかりやすいです。


    ある哲学者が考える(哲学上の神)は、聖職者が考える(信仰上の神)キリスト教の
    神を扱っているのではないのですね。
    聖職者の神を定義してないということは、聖職者が考えるキリスト教の神については、論証されていないということですよね。

    この解釈、大丈夫でしょうか?


    ちなみに、私は聖書を読んだこともなく、教会に行ったこともなく、神父や牧師と言葉を交わしたことがありません。(ドラクエの 神父ぐらいかなw)
    勉強不足ですみません><
    やはり信仰を持たない私が、信仰する神については語れないですね。

    2010年08月02日 11:08 by

  • キリスト教は16世紀にプロテスタントとカトリックに分離しましたね。
    プロテスタントは宗教腐敗の原因となる聖職者を否定しましたので、それまで聖職者たちが考えていた教義上の問題、例えば結婚や 地動説に関する問題などについて、聖職者がいないために哲学者や哲学的神学者がこの問題を考えることになりました。

    聖職者が神について考える時、当然神の存在を疑うようなことは言えません。
    あくまでも神は存在する。神は素晴らしい、という形で考えていきますが、哲学者はそのようなしがらみがないので、本当に神はい るの?本当に今まで信じられてきたことは正しいの?と疑われることになったわけです。

    この違いが、「信仰上の神」(=聖職者の神)と「哲学上の神」(=哲学者の神)との間にあるわけです。
    神の存在自体を疑ってかからないということであれば、近代以前の農民や市民も、「信仰上の神」の方を信じていたと言えます。

    したがって、③の質問に答えれば、「信仰上の神」と対応するのは「哲学上の神」です。

    これは、単純に素晴らしい、崇拝するだけの対象とは異なります。

    例えば、フランスの神学的哲学者マルブランシュ(1638~1715)は、デカルトによって提起された心身問題、つまり形のな い精神と物質である肉体が、どこで結びつくのか、という哲学上の問題に答えるために、人間の精神が、ネットワークのサーバーのよ うに神へ一旦伝わり、神を通じ身体に伝わるという仕組みを構想しました。

    この説自体の正しさは置くとしても、こうした役割を果たすためには、神は無限(時間に制約されない)であり万能で完全(物理法 則などに制約されない)でなければならないことになります。

    したがって、神が存在したとし、本質を知覚することができないかもしれませんが、完璧であるという定義を立てなければ世界の仕 組みを哲学者が説明する上でつじつまが合わなくなるのです。

    したがって、哲学者が神について語る時、崇拝のために語っているわけでなく、有限(必ず死に、能力に限界がある)な人間の反対 の物として措定し語るわけです。哲学上の神は、哲学の上で定義され批判検討されているわけですから、「信仰上の神」とは一線を画 すわけです。これが②に対する答えです。


    一応答えを出しましたが、これで前回の話がわかりやすくなったでしょうか?
    再び長々と失礼しました。

    2010年08月02日 10:17 by えんじょーじ

  • 字数制限がありいろいろ説明を取っ払ったのでわかりにくいかもしれませんね。
    mikaela5さんの質問をまとめれば、

    ①西洋の神とはどれに当たるものか
    ②その定義とは何か
    ③信仰上の神と西洋の神は違うのか

    にまとめられると思います。まず①については、今のヨーロッパの範囲、つまりボスポラス海峡とウラル山脈以西、ジブラルタル海 峡以北の世界では、歴史上多くの宗教と神々が存在してきました。ギリシャ・ローマ、ゲルマン、ケルト、スラブ、それぞれに多くの 神がいました。そして、ローマ帝国にはオリエントから入ってきた様々な宗教がありました。(それぞれについてはここで解説してい る余裕はないため気になったなら調べてください)

    その時代、ローマに今から2000年前オリエントから一つの「新興宗教」が入ってきました。それから数千年経った現在、(移民 を別にすれば)みなキリスト教徒で、それ以外の神々は殆ど滅んでしまいました。

    私が言った「西洋の神」とはこのキリスト教の神の話です。しかし、キリスト教の神は、キリスト教徒だけのものでなく、ユダヤ教 とイスラム教の神とまったく同じであるのですから、「西洋の神」は中東のイスラム圏で、ユダヤ教の場合はイスラエルやユダヤ人が 離散したため欧米のあちこちでも信じられていますね。

    「西洋の神」というのは、要するに一神教の神のことと考えてください。私はイスラム教やユダヤ教について詳しくないため、「西 洋」のキリスト教にだけ限って話をしていいたわけです。

    ②,③の疑問については以降続きます。

    2010年08月02日 10:17 by えんじょーじ

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