"神"について
文化も場所も違うのに宗教は存在しますよね。
それは人間の本質が神を必要としているか、
もしくは神が実在するからだと思います。
あらゆる宗教における神を比考しながら、神とは何なのか、
又は神はどのように存在しているのかを一緒に考えませんか?
えんじょーじさんの「西洋的な神は存在しない」ことについての論証、
私もいないんじゃないかと思っている立場なので、
面白く拝見させていただいたのですが、
明らかに存在しなことが証明されたように、なぜか思えないです。
西洋の神といっても、いろいろな宗教の神がたくさんいたりしませんか?(善そのものではない神とか)
神の定義の「完璧」とは、なんですか?
本当に、この論証で西洋の「全て」の神が存在しないことが証明されたのか、
疑問に思います。
ここで論証される西洋の神がどのように定義されているのか、(できれば、その定義された神が西洋の特定の神だといいのですが) 知りたいです。
それと、えんじょーじさんの考える「信仰上の神」と「西洋的な神」は違う神なのでしょうか?
論証を意識してしたことがないので、疑問に思ったことをずらずらと書いてしまいました。できれば、論証のための反論をしたいと 思っているのですが、、、
神について論証するとき、前提が真であるかどうか、そこが結構ややこしく難しいとことですね♪
このトピックでも、「神」を一つの機能として眺める考え方が見受けられましたが、神聖であると信じているものを道具であると呼ぶ ことは、いささか矛盾したことではないでしょうか。
私はここまで、西洋的な「神」を前提にして話を勧めてきましたが、この神聖さという特質はあらゆる神々に共通するものであるの ですから、人々が神々の即物的性質を隠そうとしてきたことは明らかです。
西洋の神に関しては、少なくとも、以下の二つの問いかけによって存立を危ういものとすることができます。
①神は悪事を為せるか
②悪事はそれ自体として単純に確定できるか。
神学者で聖人のトマス・アクィナスは、神が悪もはびこるのを許すのは、善も悪もある多様性を重んじたからである、と言った。し かし、これでは神は悪もあることを善いことだと思うからこそこれをしたのであって、これでは神は純粋に悪いことをしているわけで はない。
神は、その定義上完璧で万能なものでなければならない。
なぜなら、完璧、即ち一点の欠けることもない力を持っていなければ、それは無限とは呼ばれず、有限であるのなら我々人間と本質 的に変わらないことになるのである。
したがって、悪が為せない神というのは、その定義に矛盾する。
一方で、善や悪はそれ自体として単独で判別できるのか、と問い返すものがいたとすると、それもまた矛盾の隘路にはまりこむ。な ぜなら、神はその定義上善そのものであるはずであるが、善が、悪との対比、あるいは神以外の何か別のものとの関係性で生じると言 ってしまうと、神はその存立を神以外の何者かに依存することになり、その完全性は損なわれることとなる。
このことから、西洋的な神の存在は論証によって導きだすことはできない。
一方で、信仰上の神が存在しないと言うことはできません。上記のように、明らかに存在しなことが証明された上でそれでも神を信 じたいと言うものがいれば、それはその個人のうちにおける信念としては許されますが、理論化できない以上普遍性をもたない、即ち 他者に要求することができないものであります。むしろ、神を信じる人々にとって、他人がそれを信じているかどうかというのは本来 重要なことではないとも言えるでしょう。
以上、かなり長々と書き連ね、失礼しました。〆
2010年08月01日 20:21 by えんじょーじ
longvieさんのお考えは、とてもバランスのとれた妥当なものと思います。
(なお、ぼじるさんの書かれた内容を読む以前に書き始めてしまったので、そちらに対するコメントを含めていません、申し訳あり ません。)
さて、これまでこのトピックを眺めてきた印象として、全体的に論証の手法が不足しているように感じました。
そもそも、ひとくくりに神と呼びますが、一神教上の神と、仏教の神仏、神道の八百万の神、世界中に散らばる無数の神々をまとめ てすべてを同じ基準の下にあるものと想定し論じるのは無謀であるように思われます。
そのことは以下に譲るとして、このトピックの本来の姿勢とも言うべき世界中に神が普遍的に存在してきたことはなぜかということ に関してという問いに答えるならば、これは
longvieさんがおっしゃっているように、それを想定することが人間にとって必要であったからと言っていいと思います。
人間にとって必要性があると言うことは、普遍性をもっている、つまりいついかなる場合であっても、その存在を要請することが許 されていると言うことです。
「食べ物」や「食事」という言葉が存在することがおかしいと言うことはできない、ということです。
しかし、普遍的に存在していることが、「善いこと」であると言うことは言えない。なぜなら、人類には、暴力や嘘つきなどの「善 くないこと」も普遍的に現れるからです。
普遍的な要請というのは、それが当事者である人間にとって「役に立ち」「得である」から発生するものなのです。「食事」はもち ろん、「暴力や嘘」であっても、その行為者にとっては利得になるのです。
そのことが事実だとすると、私たちは重大な矛盾に辿りつくことになります。それは、この人間に役に立つ物であると言う前提が正 しいとすると、神は「我々の利益のために使用され、従う道具」に過ぎないことになるのです。実際、日照りで雨をもたらすと言うよ うに、「ご利益」を与えてくれる神も。しかし単なる道具を我々が崇拝しないように、その道具をあたかも道具でないかのように、我 々人間の上に立つ存在と想定せざるを得ないのです。
続く
2010年08月01日 20:21 by えんじょーじ
ここはコミュニティ・メンバーであればある程度自由に発言して宜しいのでしょうか?
神の論議からは若干離れてしまいますが、法の世界では自然法論と呼ばれる考え方があります。
この自然法論は、今施行されている法秩序の上位として、人びとの理性から導き出された法、つまり自然法があると設定し、この自 然法を基準に今の法秩序を批判する、という考え方です。理想として上げられた自然法に導かれながら現在の法律を発展していく、と いう事ですね。
この現在施行されている法と、導き出された理想である自然法との関係性は、こちらのトピックで扱われている「神」と人間との関 係性と極めて類似した考え方だと捕らえることが出来ます。
もちろんこの考え方にも批判があり、社会は人間社会の外枠にある超越的な理想に導かれるのではなく、あくまで社会に内在する力 で法秩序の発展が行われるべきだという考え方が存在します。法学では歴史主義という論理ですね。
これらは自然法論は現在社会に対するラディカルな批判原理になり、歴史主義は社会と法の安定的な発展を支える機能だ、という評 価をなされています。
この二つの考え方の文章には、多く言葉を代入することが出来ると私は考えます。
自然法論では人びとが理想であるとするものを法、ではなく神、とすれば、まさにトピックで論じられている人々と神との関わり合 いそのものを指摘することにもなりますし、また歴史主義の考え方であれば、そうした関わり合いではなく……という極めてリアリス ティックな意味合いでも捉えることが出来るでしょう。
話がわき道にそれてしまいましたが、法学の世界においてもこうした上位存在、つまり理想というものを掲げて社会発展に寄与する 論法を実践しているのです。そこに当然のように、批判という形でお互いを補足ないし成長なり改善をするという発展もありますね。
神と人との関係性も宗教的論理やその他多くの学問的、通俗的観念が働くものであると受け止めることができますが、一番必要とな るのは神やそうした存在との相対性や主観性を認識したうえで、私達自身の態度を決めることが大事なのではないでしょうか。
(※現代法学入門 有斐閣双書 を参考にしています)
2010年08月01日 19:38 by ばじる
ちょっと気になる文言があったので・・。
星が一つ出来て、生命が生まれ、人間ほどの知識を持つまでになれば、必ず神は必要となるでしょう。
なぜなら始めの人間には何も分からないから。
”神”というものを仮に祭り上げて、世界の在り様を説明したのは生きて行く上での不安を解消する必要があったのだと考えます。
何かを見、何かを考え、それが一体なんであるかを規定せざるを得ない事自体が人間の原罪なのかもしれません。
神をしてそれを惰性というのは、与えられた惰性の世界で育った人間の言葉でしかないと思いますね。
神の存在を人間の思考停止というのは暴論だと思います。
「まず神をもって仮の世界を描き」
「神を追求することで、世界の実相を解き明かしていく」
こう考えるべきであって、人間にとって正しく思考と知恵の源であったと捉えるべきだと思います。
今は”学”が進歩したので、世界の探求において神を持ち出す必要はなくなっています(と思います)。
もし、今でも神を必要とする人があったとすれば、それはまた別の何かを探求したいと強く願っている人だと思います。
自分自身が何であるか、「人間とは?」なんて難しい話では無くて自分自身。
それを強く知りたいと思う時、神であり仏という存在が求められる事に違和感はありません。
しかし、そこから自分自身への探求を忘れ、神への妄信のみになる事は本末転倒では無いかと思います。
2010年08月01日 12:17 by longvie
今私が人格神を信じるといえば、それは盲信だといわれてしまいそうです。
私は、人格神については訳が分からないままです。
ただこれは、私が人格神を盲信しているかどうかの話であって、人格神を否定しているということではありません。
神父が神を信じるのを盲信だとは思ってないです。
私は神父や牧師を尊敬しています。
本当に正しい人だと思っています。
本当に私が宗教の神を信じることができたなら、どんなにいいことでしょう。
今私は、神のために生きているのではなく、
自分の愛するべき人の幸せ、私の幸せのために生きています。
それでも、神の啓示される道から外れないでいてくれればと願うばかりです。
mikaela5さん、私はそのとおりだと思います。
ただ、科学や特定の人間を盲信するのではなく、
神の啓示される道に沿うための道具として扱うべきなのではないかと考えてます。
幸福は愛の中にあり、愛を生むものが宗教であるはずです。
幸福を追い求めているはずの文明社会で、
真の幸福を得られる唯一の存在が蔑ろにされがちなのは皮肉としか言い様がないです。
(神の意志に従うことこそが幸福なのだそうです。
自分と自分以外のすべての人間を愛し、他人が必要とすればすべてを差し出す。
魂の充足とはそのような生活でこそ成り立つのだと。)
そのような神の意志に従えば、ナイフは、りんごの皮をむく便利な道具になり、
愛する人においしい料理を振舞うことが出来ると思います。
科学技術もナイフと同じだと思います。
おそらく、環境問題や、医療の問題、介護の問題、について学んでいる学生は、
物理学、化学、生物学を学び、科学技術を発展させていくことが、今ある問題を解決する可能性を広げてくれると信じているのでは ないのでしょうか。
新薬を作るのはまさに、愛するものを助けたいという気持ちで、日夜、専門家は化学の
研究をしていると思います。 そこは、人間性を信じるほかありません。
より強度の高い優れたナイフをつくるのが科学であれば、
そのナイフの使い方を教えてくれるのが宗教ではないでしょうか。
科学は人のあり方を教えてはくれません。
科学で人の幸せを知ることはできないのです。
神の意志に従うことが幸福であることは、私は確かだと思います。
今日、トルストイの「光あるうちに光の中を歩め」を読んだのですが、
宗教とは実に興味深いですよ!
冥王星さんは典型的な先進国の民の考え方をなさっているようですが、
実はそれも確かでないかもしれないのです(*゚о゚)
科学などが発達した結果、私たちは地球環境などに悩まされ、健康を蝕まれています。
肉体的な悦楽は上限を知らず、日々の暮らしは火の車です。
果たしてそれは幸福と言えるのでしょうか?…
科学は絶対だと、自分以外の人間を信じるのもまた盲信。
他人を働かせて、一部のものを富ますためだけに発達する技術。
更にひどいことに科学の最先端はずばり殺人に使う兵器なのです。
トルストイ曰く、神の意志に従うことこそが幸福なのだそうです。
自分と自分以外のすべての人間を愛し、他人が必要とすればすべてを差し出す。
魂の充足とはそのような生活でこそ成り立つのだと。
皆さんはこのトルストイの主張についてどう思われますか?
神とは
人間が思考停止するために必要とする存在
原因不明・論理的説明が不可能な事象を説明するのに、神の所業にして済ませる怠惰を全世界的に進めてきたが、それをやめた社会 が発展したのは言うまでもない。
神とは、人類の思考停止のために必要なもので、怠惰になるための道具に過ぎない
Copyright(c)1999 FC2, Inc. All Rights Reserved.
@fc2infoさんをフォロー