自由について
ここでは「自由とは何か」ということについて多くの人に議論してもらいたいと思います。
私自身この話題については日々考えることも多いのですが、他の人のこのテーマについての議論の自由を害する可能性もあるのであ えてここで私自信の意見については明示しないことをお許しください。
また同時に、以下に述べるように論議を陳腐なものにしない為にその形式を予め指定することによっていくらか議論の自由を束縛す ることをお許しください。
1)自由とは、どう定義することができると主張し得るか?
2)それはなぜか?
主張し得るか、と強調したのは、単に「自由とは~だと思います。」といったような、単純意見(simple opinion)では議論が成り立たず、発展する余地の無い、あのネット上ではおなじみの実りの無い話になってしまうことを防 止するためです。
もとより、1000字程度で自由という巨大な問題に完璧な答えを出せることなどできないでしょうが、批判と反論による活発な同 時に礼節のある議論を交わすことで、それぞれが自分の思惟の糧とできれば幸いと思います。
2011年06月16日 02:01 by えんじょーじ
\(^^)みなさん こんにちは
自由について辞書で調べると次のとおりです。
「強制、妨害、拘束がなく、自己の本性または意志に従って行動できること。近代西欧の基本的人権は、人間は本来自由な存在であ ることを原点とする。」
と、ありました。
この定義によると、自由は、己の本性と意志に従うことでもあると言えます。
「己の本性と意志に従う」とはどういうことかといえば、それは「己の本性と意志に適う未来を行動によってもたらす」ことでも あるわけです。
それはつまり、己の在り方、家族、友人、社会、国家、自然環境、地球の未来を行動によって招来しようとすること、この世界の 未来を、己の本性と意志に適うべくして招来しょうとすることになります。
このように考えてみると、自由のもとにある人は、必然的に己の在り方と世界の未来を招来する当事者としての責任が生じます。
この責任を引き受けることで人は成長します。
この責任を引き受けることで人は世界と連帯します。
そこに、生きることの意味を見いだすことになります。
未来のあり方に対して責任を引き受けること、それは人の尊厳です。
己に未来を変える力があることを無自覚でいたり、己の未来を変える力を他者に委ねて責任から逃れてはならないと思います。
それは、己の尊厳を無自覚のままにして己の発展成長する機会をなくし、己を取り巻く世界を隔絶して世界から疎外されることに なるからです。
そこに生きる意味や喜びはないと思います。
2012年10月29日 05:23 by ジロさん
若輩の身につき、皆様の様に確固としたものではありません。
お許しくださいませ。
私、黒猫にとっての自由とは孤独である事が前提として定義されています。
一人、もしくは独りの場合他人に干渉される事はありません。
他がかかわる事によって束縛を受けるとされるならば、またそれを不自由というのであれば、他人とかかわる事のない<独り>が最 も自由となるのではないでしょうか。
一人の場合、何らかのかかわりを持つ人間が存在するが近くにいないものとします。
そういった人もまた自由なのでしょうか。
黒猫の定義で完全な自由を手にするということは、親の縁を切り、友達の手を離し、会社や学校を離れ、家を売り、さまざまな契約 (携帯、ローン、保険等)を解約して多くを失ったときに確立されます。
この場合縁が有りまた友達と会うことになってもその時は友達ではなくなっているでしょう。
せいぜい顔見知りといったところでしょうか。
完全な自由を得て何をするのでしょう。
ホテル暮らしでしょうか、路上暮らしでしょうか、いやはや人類未踏の森でサバイバルでしょうか。
家を持たないというのはヒトにできる最大の自由ですがしかし、安心する場所、自分のテリトリーを失います。
大切なものを一切持たないならばできるでしょうが黒猫にはできません。
せいぜい17年しかこの世に生を受けていませんがそれでも大切なものは両手に余るほどあります。
それを捨ててまで自由になろうと思った事はありません。
ある程度の束縛が、不自由が私をこの世にとどめているという気もします。
自由を求め、全てを捨て、残ったものは己の身一つ。
宗教、思想が行動を縛ると言うなら神も精神も捨てることになるでしょう。
自由とは人間が最後まで手にしてはいけないと思います。
ヒトがヒトである限り自由になる事はありません。
親がいて、子がいて。
友がいて、恋人がいて。
不自由とはつまり幸せである事だと思います。
自由とはつまり孤独でまた、虚無ならば。
自由とはつまり虚なのではないでしょうか。
黒猫
\(^^)こんにちは
人に「自由」という考えが生じるのは、人が「不自由」だからです。「不自由」であるからこそ「自由」という考えが生じるわけ です。「自由」な人は「自由」という考えを思いつけないはずですよ。
つまり「不自由」は「自由」の本質であり淵源なのです。
ちょっと失礼して、ここで、便宜上「不自由」という言葉を「束縛」と換言します。
考えてみると人は常々「束縛」されている存在です。
それは、食欲、性欲、金、会社、人づきあい、本能、生産手段、家庭、社会、国家に束縛されることなくして人は生きられないし 、また、生きる喜びもないからです。
つまり、束縛なくして人は生存、あるいは存在できないのです。
では、なぜ「自由」という考え方が人に必要なのでしょうか?
人に「自由」という考えが生じた理由はなんでしょうか?
その答えは日本国憲法前文に端的に書いてあると思います。
『欠乏、恐怖、専制、隷従、偏狭、圧迫』
これです。人がこれに束縛されると、とても危険なのです。それは、歴史が十分に証明してますよね。
また間がわるくて恐縮なのですが「欠乏、恐怖、専制、隷従、圧迫、偏狭」を便宜上「六悪」と表現します。
「六悪」は一個人の人生を狂わせて不幸にもするし、家族や社会や国家に不結果や不祥事をもたらして崩壊させるし、国家と国家 の戦争の原因にもなります。
だから人はけして「六悪」に束縛されてはならないのです。
「六悪」に束縛され支配されないために、「六悪」を客観的に見据えて克服する必要があるために、「六悪」を除去払拭するため に、「六悪」から自由になるために、
そのために「自由」という考え方が人々に用いられるようになったのです。
それが「自由」の起源なのです。歴史にそう書いてあります。
では、定義しましょう。
自由とは:欠乏、恐怖、専制、隷従、圧迫、偏狭に束縛されてはいけないことの自覚を促し、それらと立ち向かい、克服するため に用いる人の理念である。
と、あいなります。以上です。(^^)/
2012年10月27日 01:54 by ジロさん
「~からの自由」という表現では、自由=無束縛、なのです。
重力に束縛された人間だからこそ、鳥を見て「空を自由に飛びたい」と願うのです。
しかし、それは視方の問題です。
空中に放り投げられた、人間と鳥ならば、人間の方こそ「自由落下」します。地球視点で、無抵抗に地面に落とせる自由ですね。
「自分が自由である」という場合には、さらに「束縛された自分」とは何か?に話が及び複雑になる。
社会ルールに束縛された自分が、思うように熱く生きたいと願うなら、
それは歌手尾崎豊の自由です。
動物的欲望に束縛された自分が、自律的に考えて生きたいと願うなら、
それは哲学者カントの自由です。
そんな事を以下のエントリでは書いています。
自由 について
2012年10月08日 07:09 by 蘍(いさおる)
http://asshole745.blog58.fc2.com/
更新頻度は減っていますが、ブロとも枠にまだ余裕があるので「自分のブログは可愛らしい」と自信のある方は申請してみてくださ い。
アダルト、ギャンブル、情報商材は不可とします。
夕子、西成区、花園町在住。 第33話更新しました。
大阪、その中でも最もディープな町、西成区を舞台に繰り広げられる難波人情コメディーです。
時代は昭和40年、夕子と彼女を取り巻く個性豊かな人々が奏でる、コテコテの大阪弁による独特な世界観を御堪能下さい。
http://yuukotomasayuki.blog.fc2.com/
2012年09月12日 18:58 by 夕子と書いて…『タコ』…と…よまないでね。
続きです…
例えば、商品はほとんど中身の違わないものにわざと何らかの違いをつけて、
「さぁ、どちらにしますか?選んだ方があなたなんですよ。」と迫ります。選んだ方もそれを本当に必要としていたものかどうかに かかわらず、選択肢を選ぶことで、あたかも強い意志でもってそれを選んだという幻想を抱いてしまうのです。今、個性、個性と騒ぎ 、それが自由だと宣伝することは、むしろ、現代の人々の「個性」がいかに脆弱なものになっているかをまさに表しているものだと思 います。
現在の消費文化では自由を売り物にし、自由を金で買っているのです。果たしてその自由は、本当に自由なのでしょうか。
例えば、感情においても、人はすぐ笑えるもの、泣けるもの、といった大きく感情を揺さぶってくれるものを強く求めます。それ は、その人の日常生活や職場などで極端に感情を出すことが禁止されているからでしょう。しかし、感情なしに人は生きられないので 、一方で強い刺激を与え、泣いたり、笑ったりします。
この場合、この泣く、「悲しい」という感情はこの人のものでしょうか。笑いは本当のおかしさでしょうか。現在、自由はあちこち に氾濫しているように見えて、ほとんどないようにも見えます。
自由は与えられるものでは決してないでしょう。おそらくこれからの時代、放っておけば次々と自由は奪われ、その代りの偽の自 由が提供されるだけです。
今、私たちは、そういう状況に立たされていることを強く踏まえ、個性や自由を過信せず、それでも自由を強く要求しなければな らないと思います。
・自由という問題を考えた時にまず生じるのが
私という「個人」と社会を切り分けるような見方です。
まず私個人という発想自体近代に入ってから誕生したもので、それまであった「自分」は職業や性別、階級、出身などによって決め られていました。例えば農民として生まれたなら、彼は農民の誰々として生きればよかったし、自由な考えや思想も必要ではありませ んでした。
それが近代に入り、資本主義社会(工業化社会)はかつてあった土地や階級、性別、老若男女問わず、関係性を破壊し、人々を「 労働者」にします。労働者は生まれた頃から身分や地位などが関係しないので、そこにはかつてあった関係性から生じる名称に変わり 、「私」や「個人」に重きが置かれるようになります。
そこでは「私」はかつてあった縛りからは解放されたものの、浮草のような状態に立たされてしまいます。精神的にはかなり不安 な状態に立たされてしまいます。なので資本主義は強い国家を伴って出現しました。小さな共同体にとって代わり巨大な権力が人々を 操作したり、抑圧したり、また一方で、人々が強いものに憧れ、惹かれ、隷属してしまうような基盤が作られました。
労働者は一方で消費者ともなります。自分という存在がすべてで、それがまた不安の根源であるため、商品はどんどん「個性」を 強めてくれるものをたくさん提供してくれます。髪型、ファッション、食べ物、テレビ、車すべてのものが、それを手に入れると自分 が作られていくように宣伝します。そうすることでたくさんの物を持ち、もしくはたくさんの考え方を持つことが、自分を表すもので あるという発想が生まれます。
自由とは
ある程度の知識と選択肢の中で自分の意志で決断する事が出来る。
そして人や社会から物事を強制されないこと・・・でしょうか。
ですが、僕らは社会の中で生きています。
生きるも,死ぬのも,殺すのも自由!としてしまえば
その社会は成り立たなくなってしまいます。だから社会の1部として生きている以上犯罪を犯せば捕まるなどといったルールを飲み 込むしかないのでしょう。
しかし、そのルールを考えたのが自分でなくともルールを守りたくなくても、本人にある程度の選択肢が与えられていればそれは自 由だといえると思うのです。
2012年07月13日 14:24 by 狐さま
皆さん ありがとうございます o┐ペコリ
自由は そんな簡単なものではないな と考えさせられました。
私は 特に 未来の夢さん の
とらえ方が正しいように思います。
今、私が思う自由は以下です。
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自由には責任が ともなう。
自分の自由で、他者へ不利益を与えるなら その責任をとる。
責任をとらないなら、わがまま。
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例えば、
何を言っても自由と、
相手に言った言葉で、
相手が傷ついたとしたら、
その責任について考えなければいけない。
私は 自由 を、
ご都合主義的に とらえないよう
気をつけようと思います。
2012年03月01日 18:28 by gichan
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