自由について
ここでは「自由とは何か」ということについて多くの人に議論してもらいたいと思います。
私自身この話題については日々考えることも多いのですが、他の人のこのテーマについての議論の自由を害する可能性もあるのであ えてここで私自信の意見については明示しないことをお許しください。
また同時に、以下に述べるように論議を陳腐なものにしない為にその形式を予め指定することによっていくらか議論の自由を束縛す ることをお許しください。
1)自由とは、どう定義することができると主張し得るか?
2)それはなぜか?
主張し得るか、と強調したのは、単に「自由とは~だと思います。」といったような、単純意見(simple opinion)では議論が成り立たず、発展する余地の無い、あのネット上ではおなじみの実りの無い話になってしまうことを防 止するためです。
もとより、1000字程度で自由という巨大な問題に完璧な答えを出せることなどできないでしょうが、批判と反論による活発な同 時に礼節のある議論を交わすことで、それぞれが自分の思惟の糧とできれば幸いと思います。
2011年06月16日 02:01 by えんじょーじ
はじめまして、どうぞよろしくお願いします。
『・・・すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与 えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.その正当な権力は被統治者の同意に基づいてい る.・・・』
アメリカ独立宣言はこうあります。libertyは「神様が与えてくれたもの」だから、人は「神」に対してのみ、責任を取る。
日本人に「GODがね…」と言ってもしょうがないから、訳す時困ったでしょうね。
「自由」は福沢諭吉の訳語と言われますが、『西洋事情』で広まったようですね。「自らを由とする」または、「自らに由る」から 「自由」となったようですが、一人福沢だけでなく、その意味合いが多くの日本人に受け入れられたからこそ、今に残ったと考えるべ きでしょう。
私はこれを「自分で責任を取るべきこと」と考えます。
2012年02月28日 09:42 by イーグルス16
初めまして、皆さん凄いですね。
私は、学のないおばちゃんです。
私の考える自由とは、責任が伴うと定義いたします。
責任なき自由は不自由だとも考えます。
また自由は平和とも同じだと定義します。
ちゃんと説明できるかわかりませんが
私の経験からの話ですが
ある人は会社で携帯の充電をします。
ある人は会社以外でも平気でお化粧室やカラオケで充電します
ある人は宿泊施設でもオーナーに了承を得て充電します
ある人はどこでもしません。
よく見かける風景です。
倫理上の話では電力泥棒になり他の方への被害を考えない行動
つまり自由の中に他者への不自由が含まれる場合をわがままといい
自由を束縛してしまうと考えるのです。
責任を果たすから自由があると。
自由とわがままは必ず違いがあるので
その定義は責任の範囲により変転するといいますか
たとえば、
この前シリアの国連決議がございましたが
ロシアと中国が拒否権を発令し決議がなされないう事がございました。
国連は自由参加、拒否権は戦争による勝者の5か国にのみにございます。
非人道的国に対して考えることは自由ですが
兵器を売る国には、戦闘は経済を潤すと考え
大元の平和が揺らぐわけですが
この時に世界が考えるのは、シリアの平和を地球の仲間としての
共通の認識をどうするかと考えているわけです。
反対する国は自国の経済を考えシリアの平和はシリアの問題と
考えているわけです。
世界と自国この認識の差が不自由を生む原因を作ると思うのです。
責任をとれる範囲の自由は許されます。違いを埋める作業が出来ず
不自由になっているのです。
日本の自由の観点がわがまま路線にならないことを願うおばちゃんです。
2012年02月26日 00:45 by 未来の夢
是非見てください!
http://nakagimaumi.blog.fc2.com/
2012年02月14日 06:10 by nakagima umi
先ず私の自由
こんなだったらイイな など
それで 真理
時代を超越した 合理性かナ
バランス かなあ
私の 自由
世界曖昧にそー成ると
イイな
2012年02月10日 03:15 by とみぃDM
最近 法思想史を学び始めた者ですが、「自由」についての認識もどうしても欠かすことができず、この議論に参加できればと思って おります。
まだ勉強中なので、いろいろお答えすることはできませんが、
政治思想、法思想としのて「自由」についてまとめたものを書いています。
分量が多いので、ブログをみていただければと思います。
http://countupbook.blog.fc2.com/blog-entry-3.html
2011年10月19日 23:21 by 電車の騒音
>ayamiaktas さん
西欧における「自由」という言葉が、本来そういったものを意味するとは知りませんでした。
勉強になります。
ところで、
たとえば西欧によくある三色旗には、王政を倒して国民国家を目指した際のイデオロギーとしての「自由」が、旗の持つ思想の一つ として示されていると聞きます。
絶体王政と市民による政治を対比させた際の、(市民本位の)自由とは、西欧人と奴隷を対比した際の自由とは、また少しニュアン スがあるように思います。
このように、やはりそもそもFreedomやLibertyには、複合的で象徴的な意味合いがあると思うのですが、いかがでし ょうか?
確かに、自由という言葉には危険もあると思います。それを語ることで無意識に偏見的な立場に自分を収めてしまう可能性もありま す。
しかし同時に、期待も持ちうる。
「自由」とて、ただの言葉ですから。扱い方次第でいかようにも効果を持ちうると、私は考えます。
ただ、改めてになりますが、日本語の「自由」に余分に甘い響きがあるとも思います。
なんだかまとまりが無くなってしまって申し訳ありません。
2011年10月17日 00:08 by ことばおいてたひと
こんにちは。
日本になかった思想を日本語におきかえると、けったいなことがよく起こります。「自由」は明治新政府が採用した新語です。それ 以前にも漢書のなかには見られましたがおよそ浮世の人たちのあずかり知らない言葉でした。
では西洋人の自由とはなにか、それは「我儘放蕩」「傍若無人」です。異教徒の国を侵略し、宝物は持ち帰り放題。奴隷たちにはな いが自分らにはある、それがFreedom もしくは Liberté であります。
しかし西洋思想を啓蒙したかった福沢諭吉らにしてみれば、まさかそんな和訳をつけるわけにはいかなかった。そこで漢書をひっく り返して辿り着いたのが「自由」です。
「自由」に清く正しいものを期待するのは大変危険です。
「由」は「わけ、なりたち」。物事の「わけ」を「自ら」でっちあげるのです。戦争をふっかけまわり世界の警察を気取る国があり ますが、その国の御本尊が「自由の女神」であることは納得できます。
人は自然の理に常に拘束されています。水と空気のない所では生きられないのです。親や子を選ぶことはできないのです。こうべを 垂れて死を受け入れるしかないのです。一時も自由ではない。
うどんにするか蕎麦がいいか、そのくらいは自由に選べる。その程度が相応です。
http://turezurebana2009.blog62.fc2.com/
2011年10月12日 04:48 by ayamiaktas
おもしろいトピックありがとうございます。
歴史的背景や、偉人の論についてはいっさい知識がありませんが、私なりの回答を書いてみようと思います。
1)自由とは、どう定義することができると主張し得るか?
「選択肢が多くあることを認知すること。」
2)それはなぜか?
この主張は、不自由を「拘束さえれている様」という定義と、「自由は不自由の対偶である」という定義を条件とすることで成り立 つと考えます。
この不自由を別に定義するとき、おそらく上記の主張は成り立たなくなります。
拘束から逸脱する手段は主に以下のようなものがあると考えます。
①拘束を取り払う。(逃げる、壊す、解消する)
②拘束の上で、他の選択肢を認知する。(気づく、悟る)
②手段は同時に①を内包する可能性があると思いますが、その逆は無いんじゃないかと思います。
以上、私が主張し得ると考える「自由」でした。
ご意見よろしくお願いいたします。
2011年10月07日 23:23 by ことばおいてたひと
招き猫の手さん!今しばらくお待ちを!
自由から自由観への転回!?
僕はその当時には詳しくありませんし、バークなんて知りもしませんが、ちょっと違和感があります。(バークの主張においてでも 、その皆さんの解釈においてでも、)そもそも「自由」が何らかの形で理念として形成されたのはいつだとお考えなのでしょうか。
近代への転換として自律が発生したというか、自律を内化させざるを得ない社会装置が作られたというか、つまりフーコー的個人、 従順な身体が主体として初めて形成されたとするなら、主体的な意思決定はむしろ近代化の産物であって、それ以前には(現在的意味 での)主体は存在していないし、従って自らの意思による選択や契約(ひいては自由)といった概念は登場していないと、僕は考えて います。(信頼できませんが、wikipediaにも1729年時点で、libertyは別の意味が主であり、次第に現在の意味 で用いられるようになってきている、という旨ありました。)
そういった意味で、「自由(ここではlibertyでしょう)」なる語が用いられるようになった時期自体が革命前後だと、勝手 に想像していたのですが、僕は歴史学者ではないので、それ以前の文献を読んでいたりするわけではありません。
仮にこれが正しければ、転回などは存在せず、むしろ自由が発生したということになります。
そのあたり気になるので、できたらもう一度お教えください。
えんじょーじさんも強い批判は抑えましょうよ。
どんな意見にだって見るところはあります。相手と自分の立場の違いを意識して、そのずれを修正できるような、あるいはずれを互 いに意識できるような問いかけをして、少しでも有効な議論に導くことがホストの役目ではないでしょうか。せっかくお二方とも優れ た知識をお持ちなのに、そんなことではもったいないです。
えんじょーじさんにたいしてのお返事。
バークの保守思想とは、私からすれば、伝統維持の擁護です。たとえ偏見や先入観があろうとも、それだけの理由で改革しようとす る理性主義(合理主義)的方法にたいして、【持続してきた伝統の有益性】を考えないまま、予想しえない危険性にたいしても無頓着 である点を戒めたものです。
まさにフランス革命の合理論的考え方にたいして、イギリスの経験論の立場から意見を述べた形なんですよね。フランス革命に野蛮 性を考察して満足したバークではなく、むしろその野蛮性に維持されてきた伝統にたいする無知や科学至上への陶酔を見ていたと言わ ざる負えません。おそらくクロムウェルの独裁を見た後の1660年の王政復古より、イギリスにおけるバークの保守思想の基盤がで きあがってきたのでしょう。
そんな二百年以上も前の英仏を取り上げたのは、それが【自由観と社会の関係】を顕著にあらわした出来事だったからです。この自 由から自由観への転回とは、理解されうるならば、カントに継ぐ 「コペルニクス的転回」 と宣伝されてもよい方法となるでしょう 。限定された天動説の本質的議論からすれば、地動説が場違いに見えるようなものなのです。
では最後に、私には本質な点の方向さえわからないので、これを最後とさせてもらいます。ここは歌丸さんが仕切る 「笑点」 会 場。お題目合わずにすっかり座布団をとられてしまった木久蔵さん気分で退散します。
日本の若者、頑張れ!
頼まれてはいないが、声援だけおくってやる。
by やっばり場違いだったおじさん
2011年06月23日 18:45 by おバカな意地悪くん
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