自由について
ここでは「自由とは何か」ということについて多くの人に議論してもらいたいと思います。
私自身この話題については日々考えることも多いのですが、他の人のこのテーマについての議論の自由を害する可能性もあるのであ えてここで私自信の意見については明示しないことをお許しください。
また同時に、以下に述べるように論議を陳腐なものにしない為にその形式を予め指定することによっていくらか議論の自由を束縛す ることをお許しください。
1)自由とは、どう定義することができると主張し得るか?
2)それはなぜか?
主張し得るか、と強調したのは、単に「自由とは~だと思います。」といったような、単純意見(simple opinion)では議論が成り立たず、発展する余地の無い、あのネット上ではおなじみの実りの無い話になってしまうことを防 止するためです。
もとより、1000字程度で自由という巨大な問題に完璧な答えを出せることなどできないでしょうが、批判と反論による活発な同 時に礼節のある議論を交わすことで、それぞれが自分の思惟の糧とできれば幸いと思います。
2011年06月16日 02:01 by えんじょーじ
E.バークのフランス革命に対する批判は有名ですが、私の理解した限りでは、彼の批判の中心は革命の担い手たちの野蛮性にあった ように思われます。
また、「市民革命」の時期ということについて考えれば、フランス革命の20年以上も前に勃発し、フランス革命に多大な影響を与 えたアメリカ革命(独立戦争1775-1783)がフランスに先んじており、またバークの態度もフランス革命とは異なりアメリカ 革命に対しては好意的です。
これらの点から、少なくともバークを基準にして英・仏(とそれ以外)と言ったように分割することは余り意味があるようには思え ません。
2世紀以上昔の話について延々と議論をするまでもなく、現行の自由に関する議論がアメリカの政治哲学において盛んに行われてい ることを考えれば、このような分け方がほとんどナンセンスであるといっても、失礼には当たらないことでしょう。
文化間において多少の自由観に差があること、また文化の源泉となる社会が、我々の自由観に影響を与え、その自由観自体がその後 の社会の自由観に対しフィードバックされていく(ということだと理解しましたが)、は事実であるにしても、これらの議論は自由に ついての議論と言うよりも、自由観についての議論という方向へずれてしまっているのではないでしょうか。
最後に一つだけ、失礼を承知で言わせてもらえるなら、各段落における議論相互の連関が非常にわかりにくい、というこも付け加え ないわけにはいきません。
特に3回目の投稿において、バーク→保守党・自由党(ホイッグとトーリー党ではなく)→ニュートンのリンゴと力学→最終段、の それぞれの連関が非常にわかりにくいと思ったのは、私自身の理解力と想像力の欠如にのみ責めがあるとは思えません。
最後の言葉はいささか辛辣に過ぎるように思われ、私自身としても実に申し訳ないという思いも強いのですが、是非ともこの点につ いて改善していただき、また同時に自由についてより本質的な点に向かう議論を期待したいと思います。
2011年06月22日 23:39 by えんじょーじ
えんじょーじさんにたいしてのお返事。
英仏のみの自由観を扱った理由は、市民革命を早く行った二国と言う点にありました。特にフランス革命の際に、イギリス側の保守 主義の父と呼ばれているバークがフランス革命の急進性を指摘したことは、一つには英仏の文化圏における自由観のちがいによって引 き起こされた結果と言えます。
他のアメリカや日本などは、ほとんどフランス的な自由観であり、イギリスのみが特殊であると私は考えています。イギリスの自由 とは伝統的な社会的拘束の除去であり、拘束がある場合の得する人と損する人、拘束を除去した場合の得する人と損する人の状況で議 論を共有化するまでにいたったからです。
つまり保守党と自由党による支持者の社会的配分状況を共有認識しようとした文化圏で、やがて保守党と労働党の対立になったこと からしても、さほど 「自由」 の実現に信頼を置かず、自由化の社会的結果の方を問題としたイギリスでしょう。
たとえばニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力にひらめいたと言われていますが、それはリンゴが枝から自由になった時、 【枝からの拘束が解かれた】という自由に過ぎず、自由落下に法則を見たニュートンだったと想像できます。
日本で言われている 「力学」 とは、もともと西欧では 「メカニックス」 です。力点の集合によって全体を見るのではなく、 全体的メカニックスの中に力点を見ていたのです。たいていの現代的な 「自由」 とは、部分的力点について言われるもので、外部 環境に影響を受ける質点的な自由と考えられて議論が生じます。つまり【メカニックスなき空間内】の自由質点の集合体として社会を 見る議論なのです。しかしイギリスの自由観は、いつでもメカニックス的な空間内にある粒子であり、拘束状態と拘束なき自由な状態 の双方に、あらかじめ【メカニックス的空間】が前提されている感じなのです。
それから我々が抱いている自由観が単なる自由思索の結果ではなく、【社会的もしくは文化的影響の必然性を受けた形成】という点 ですが、一方で形成された後に【社会的な必然的影響を与えている自由観】という意味も含まれます。
2011年06月21日 18:15 by おバカな意地悪くん
この場が盛んになると私自信が逐一コメントをつける訳にはいかないだろうと遠慮していましたが、さほど白熱もしていないのでさせ てもらいます。また、私の「定義」という語はさして重要ではないのでそこは気にしないでもらいたいと思います。
さて、まずは招き猫の手さんのご意見についてコメントさせて頂けば、一度目の投稿について、なぜイギリスとフランスという二つ の文化の自由観のみ提示されたのか、という所に疑問を感じます。
アメリカや日本、ドイツや中国,etc.を省いた理由となる原理的差が、英仏の自由観とそれ以外にはあるのでしょうか。
また、二回目の投稿については、そのお考えは、“自由を定義することが人々の(自由にかかわる)世界観を確定してしまうことに なる”ということだろうと思われますが、(おそらく)J Setoyamaさんの意見、そして私の意見に基づくなら、自由をどう 捉えるかという観念は、我々が1から築くのではなく、むしろ我々がおかれている(社会)状況に左右されている、との考えと対置さ れるものであるように思われることです。
J Setoyamaさんのご意見は、まず一点として、「自由落下は不自由落下」という一節ですが、自由落下という言葉がfr ee fallの単純な翻訳であるとするなら、自由の形容は落下物にではなく落下現象に属している事になり、落下物に自由が無い ことはそもそも問題にすらされていない、ということですから、例示としてその言葉は如何なものでしょう。
とはいえ、これは本質的な問題ではないと思います。
私の感覚として、自由とは全く無制限な非制限ではない、という点においてSetoyamaさんの考えと共通しています。ただ、 これは自分にとっても共通の問題点だと思いますが、一つには、自由の制限は社会という対人的な場でのみ起こるものではない、とい うこと。主体(の意志)と対象とに関係性が存在すれば、どんなものでも自由の制限は発生するのではないでしょうか。
二点目として、自由の範囲が限られたものであるなら、それが一定の範囲の中での可動域のあるものであっても、自由は制限されな いことをそれ自身の内に含んでいるのですから、一旦制限を受け入れると、それはもはや自由と原理的な矛盾を起こすように思われる 、ということです。
話が長くなりましたが、文字数制限の関係でこれでも舌足らずで申し訳ありません。
2011年06月20日 23:57 by えんじょーじ
自由観の必然性。
「自由」 について過去に色々な定義がなされて来ました。これからも新たな 「自由」 についての定義がなされる可能性もある でしょう。
しかし、一旦人間が 「自由」 を定義し始まると、自身の世界観に影響を及ぼすことになります。私が 「自由」 を研究した結 果、それは自身の世界観を構築するため、あるいは様々な人々の世界観の様相を知るための一指針の域を出ません。「自由」 の定義 とは、現実を解釈するための理論的前提として働くに過ぎず、ある世界観への固定化を意味します。
もちろん、「自由」 の定義を議論することで、様々な人々の物の考え方を知るのに役立つでしょう。しかし私としては、これから の学問には、人々が抱いている自由観の社会的影響を踏まえた上で 「自由」 を定義している現実自体を見る必要性を感じている訳 です。
もし私が 「自由」 を定義するならば、【決定されていない流れゆく現瞬間】のみです。起きてしまった過去とは、一秒前と言え ども、すべて自由なき必然です。すれば【自由観を抱いていた過去の必然】に出会うこととなり、「自由」 を定義する主知主義に限 らず、「自由」 を定義している現実自体を見る必要性が生じます。
2011年06月20日 17:50 by おバカな意地悪くん
「自由がどう解釈されているか」より、「自由をどう定義し得る(と主張し得る)か」を問うている。つまり実際の「自由」の用法の 提示ではなく、「自由」の創造をこそ求めていらっしゃると解釈したうえで、論理を組んでみます。
たとえば、主張されうる最も容易な自由論は、相互不可侵、つまり他者の意思(通常は自由と言われますが)を侵害しない領域での 現実的行為と意思の可能性という定義でしょう。
しかし、因果関係や相関関係は、完全には定めることができず(たとえば僕のこの言論も誰かの言論を妨げる恐れがあるという点で は自由の侵害の危険を含んでいる)、こういった自由の定義は論理的に非常に不安定です。
そこで、相互干渉という点を一度棚に上げてしまって、認識/行為者としての個人に焦点を当てます。多くの社会学者(人類学者) が指摘するように、ある個人の行為は、それ自体が既に社会化の過程を経たものであり、実際には属する社会の認識枠組みを脱するこ とはできません。「自由落下は実際には不自由落下である」とはよく言ったもので、配置された状態から演繹されうる領域を、「自由 」の可能性の全体と(誤)認識させられるのです。
これによって、複数者間の自由の衝突という問題を回避することができます。というのも、そもそも、他者を侵害することは、その 人物の認識中に(落下コース中に)現れないからです(あるいは、他者を侵害しているという意識や、他者に侵害されているという意 識が現れないからでもある)。
したがって、僕の主張は、自由を普遍概念として抽象することはせず、特定の社会の中で、それぞれに定義しうるのではないか、と いう主張であり、同時に、「自由」を、理想・目標・善として「先に」用意された概念ではなく、理由・解釈・反射・再帰として「後 に」据えられる概念に引きずりおろすという主張です。言いかえれば、開かれた自由へ「進む」のではなく、閉じた自由へ「帰る」あ るいは「支配される」と考える主張です。
ちょっと、いや、かなり複雑な主張なので、言っていることが分からなければ、どうぞスルーしてください。長々と申し訳ありませ ん。
「自由」 の二つの見方
イギリスでは【慣習的な拘束からの解放もしくは離反】とイメージされ、フランスでは【個人の生まれ落ちてからの方向性】とイメ ージされる傾向にあります。
イギリスの自由観は他の文化圏と比べて特殊です。個人的にはイギリスの自由観を抱いている場合もありましょうが、文化圏単位の 広がりを考えれば、日本を含めてほとんどがフランスの自由観にあるように思えます。
おそらく 「責任を伴うのが自由」 と言う考え方も生じると予想されますが、それは各人が自身の個人的自由を主張する場面が浮 かんでくるために、社会秩序のイメージによって、互いに説得し合う雰囲気づくりをするための提案主張となります。
イギリスでは維持継続してきた拘束を伝統を見なすため、個人的な自由は伝統知らずと周囲が嘲笑してくれるでしょう。イギリスに は自由の女神は似合いません。「自由」 を定義しようとすること自体が、フランス自由観の方向へと向かせることになりそうです。
問題は、人々が 「自由」 をどのように考えていて、その社会的結果がどうなっているかということになります。
by 場違いな おじさん
2011年06月17日 01:00 by おバカな意地悪くん
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