なぜ人を殺してはいけないの?
よくきく この問い
皆さんはどう考えるのか教えて頂けると嬉しいです。
私は人生経験がまだまだ少ないヒヨッコです。
皆さんの考えを糧にしていきたいと思っています。
よろしくお願いします。
殺人は何故いけないかと言いますと、その人の生存権を侵害するからであり、殺されないことを前提としたその人の計画や事情などを 狂わせるからです。
この二つの理由が殺人をしてはいけない主な理由です。
同様に出産は子供の生きたくない権利を強制的に剥奪する行為であり、殺人と同罪と思われます。
2015年08月02日 18:45 by こやひろかず
いい。いけない。
という価値観は人それぞれです。
一人一人の価値観がある中で、多数派の価値観が、「人間社会の価値観」として機能しています。
例えば、潜在的に殺人を悪と考えていない、、しかし殺人はしない。という人もいるでしょう。
殺人を悪と感じないのになぜ人を殺さないのか。それは「罰」に対する恐怖、忌避感が、「殺人」への欲求を上回っているからであ ると思います。
法律に規定される罰則だけでなく、社会的ペナルティ、反撃によって自分が死傷する可能性、自分の中に生じるかもしれない嫌悪感 …など、数々のリスクが殺人には伴うでしょうから。
結局、殺人の是非は、個人の価値観に由来するのです。
もしあなたが、殺人に関する数々のリスクを考えたうえで、それでも誰かを殺したいと考えたときは、その人を殺そうとすることは 可能です。
「人間社会の価値観」と「あなたの価値観」がズレてしまった時、「人間社会の価値観」はもはや「あなた」を縛ることはできない のですから。
倫理的な見方、法律的な見方、さまざまな観点はありますが、それらも「一つの価値観」でしかありません。
「人を殺してはいけない」
これに対する”なぜ”には、価値観の数だけ、視点の数だけ回答があり、そのどれもが絶対ではないということ、どれを選ぶかはあ なたなのだということ。
答えになっていない、と言われるかもしれませんが、これが私の回答です。
2015年08月01日 17:03 by BLOGGG
やったらやられる。殴ったら殴り返される。結局、人を殺せば復讐される。だから、自分の身を保つためにも人は殺してはならないの よ。
戦争が典型。戦いが起これば、紛争⇒戦争⇒世界大戦へと発展する。そうやってデススパイラルに落ちていく。歯止めが効かない。
シリアの内戦もそうだし、中東のスンニ派とシーア派も自爆テロ合戦もそうだな。やったらやり返されるの繰り返し。結局、泥沼化 してどうにもならなくなる。
緋月さんの指摘を受けて。
「ニーチェのその一言ですべてを纏め上げたいのでしょうか。それで「終わり」だというのでしょうか(以下略)」
私も基本的に同意見です。私の長文よりも、非常に簡潔にまとまっているように感じます。羨ましい才能だと思います。
2014年03月17日 12:40 by ササクレ
2
ですので、「私は今回、ここでは人間文化は「恣意的ではない」という立場を取っています」というのは私の立場で、「ここでデリ ダ的論法で述べるなら、私の考えが恣意的であると同時にnoosphereさんの指摘も恣意的である、と言わざるを得ない」とい うのはnoosphereさんの立場を私がなぞっている部分になりますので、矛盾はないと思います。
殺人が禁止されている本当の理由が分からないというご指摘についてお答えします。これには私も同意しています。なので、私は これについて、自分の立場を真理ではなく「信仰」であると述べています。信じるものは皆色々と違っていると思います。
「「死ぬのが恐いから殺人が禁止されているのだ」という主張は、どう考えても恣意的な解釈です」とのことですが、これについ ても私は認めております。これについては、「私の意見は恣意的なものを否定したために生じているのではなく、重々恣意的であるこ とを認めたうえで」というふうに記してあります。ただし、これはもう一度、注意しておきますと、「デリダ的論法」の視線に私が合 わせた場合に見える景色です。
そして、これをフロイト的な「無意識」を仮定した景色として見てみると、一見恣意的であるように思われた人間文化に実は意味 がある、というふうな解釈、つまり、今回私が取っている解釈になることになります。
デリダ的な視点とフロイト的な視点の交錯によってこの議論は起こっていると思われます。ですが、私がひとたびデリダ的な視点 を取れば、私もnoosphereさんと同一の結論にたどり着くと思われます。ただ、デリダ的な視点によるのなら、無論デリダ的 な視点も恣意的と言わざるを得ず、その帰結からも、あえて「恣意的ではない」と考える私の視点も生れてきます。
問題は視点の取り方であって、それは人によって異なっている、ということになると思います。
それこそ、「万人が認めざるを得ないような真実とか真理とったものは存在しない」ということだと思うのですが、いかがでしょ うか?
2014年03月16日 22:32 by ササクレ
1
noosphereさんの指摘を受けて。
まず、私などの言う戯言にここまで付き合って下さりありがとうございます。なんというか恐悦至極という感じです。
では、noosphereさんのご指摘について意見を述べさせていただきます。
まず、私の発言に指摘されている「矛盾」についてです。結論から言うと、これは矛盾していないと思います。ただ、私の方で言 葉足らずだったということはあるかもしれません。これは私の至らないところです。申し訳ありません。
まず、noosphereさんの私の文章の引用から省略されてしまっている「ここでデリダ的な論法で述べるなら」という文節 を加味してご再考ください。ここでいうデリダ的論法は、私がnoosphereさんの立場であろうと理解している部分です。なの で、「私の考えが恣意的であると同時にnoosphereさんの指摘も恣意的である、と言わざるを得ない」というのは正しくは、 「ここでデリダ的論法で述べるなら、私の考えが恣意的であると同時にnoosphereさんの指摘も恣意的である、と言わざるを 得ない」というふうにしていただければ、この部分で取られている立場は、私の立場ではなく、noosphereさんの立場をなぞ ったものであることがご理解いただけると思います。
2014年03月16日 22:31 by ササクレ
「私は今回、ここでは人間文化は「恣意的ではない」という立場を取っています。」
「私の考えが恣意的であると同時にnoosphereさんの指摘も恣意的である、と言わざるを得ない」
矛盾していませんか?
殺人が禁止されている本当の理由などわかるわけありません。
もともと理由のないものに、勝手に理由をでっちあげるのは乱暴だと思います。
「死ぬのが恐いから殺人が禁止されているのだ」
という主張は、どう考えても恣意的な解釈です。
何の根拠もありません。
5
これは、私の「信仰」であるということになります。いうなれば、私は鶏が先だと言い、noosphereさんは卵が先だと言 っていることになると思います。どちらが最終的にいい目を見るか、ということについてはまさに神のみぞ知る、というところでしょ う。恣意性の有無についての考え自体が、そもそも互いに恣意的である、ということになると思います。
2014年03月15日 23:32 by ササクレ
4
noosphereさんの経緯とは殺人を禁止する道徳が先にできて、後世の人がその道徳に従った、という経路を取っています 。
私の場合は、まず、人々が殺人を禁止する理由があって、その動機によって殺人を禁止する道徳ができた、という経路を取ってい ます。法律はこの道徳を基礎としてできてくると考えています。
そして、動機が先か道徳が先か、という問題になります。
これは鶏が先か卵が先か、という問題になりますので、答えが出ないことが予想されます。その意味では、ここでデリダ的論法で 述べるなら、私の考えが恣意的であると同時にnoosphereさんの指摘も恣意的である、と言わざるを得ない事態になると思い ます。ここで、恣意的なものをあくまで脱構築していこうという立場を取るのであれば、noosphereさんの取っている立場が 形づくられてくると思います。ただ、私は恣意的であるから思考を止めるというのではなく、恣意的であり得るうえで、自分に何を為 しうるかについて考えています。現実的に恣意的であり得る道徳が人に強い影響力を持つことはnoosphereさんも認められて いることと思います。では、その恣意的であり得るが、なおかつ人間にとって重大な問題である道徳について考えていこうというふう に私は意見を述べています。なので、私の意見は恣意的なものを否定したために生じているのではなく、重々恣意的であることを認め たうえで、では私たちに何ができるか、というふうに為されています。
2014年03月15日 23:31 by ササクレ
3
そのことを確認しておいて、問題の「恣意性」について意見を述べたいと思います。
ここでnoosphereさんは人間文化は恣意的であると主張をなさっています。私もその可能性は認めています。なにせ、倫 理学の対象に数学的な必然的な解答を求めていないことは前記の通りです。ただ、私は今回、ここでは人間文化は「恣意的ではない」 という立場を取っています。
人間の恣意的な行いに「無意識」による意味を見出したのがフロイトたち、精神力動療法の方々だと思いますが、私は今回、おお むね彼らの立場を取っていると考えていただけるといいと思います。つまり、恣意的に見える人間の運動に何かしらの「意味がある」 という立場で意見を述べています。なので、noosphereさんが恣意的と言う対象に「ある意味」があるというふうに考えてい ます。法律による罰にも意味があると考えていますし、道徳にも意味があると考えています。そして、この道徳的問題、つまり倫理の 問題は先ほども述べているように、「多様であり得る」というふうな立場を取っています。私は今回そのうちの一つの立場を取ってみ た、ということです。
そして、これは最初の方で述べたとおり、「信仰」の相違ということになってくると思います。
2014年03月15日 23:31 by ササクレ
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