なぜ人を殺してはいけないの?
よくきく この問い
皆さんはどう考えるのか教えて頂けると嬉しいです。
私は人生経験がまだまだ少ないヒヨッコです。
皆さんの考えを糧にしていきたいと思っています。
よろしくお願いします。
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では、何が違うのかという話になってきます。私はこれに対しては「信仰が違う」と申し上げておくのが良いように思います。つま り、万人の真理は確かにない、しかしその後の行動の指針が違う、ということです。それこそ、私たちの取っている倫理が「それぞれ に多様性を持って異なっている」ということです。
noosphereさんは脱構築というか、デリダ的な路線の論法を取っていらっしゃるのかな、と思っています。まちがってい たらごめんなさい。大学の先生がデリダは駄目だ、というのですが、私は好きです。それこそ、私と先生では選択している倫理が違う のでしょう。ちなみに彼はフーコーが好きだそうです。
一方、私は今回の場合、自分なりの秩序立てを行うことを選択しています。脱構築的な論法をとるのなら、確かにその秩序は脱構 築されねばなりません。いうなれば、私は秩序を脱構築することを「脱構築している」ということになるかもしれません。なので、た とえ私が秩序立てていて、noosphereさんがデリダ的な論法を取っていたとしても、結局はどちらも同じ立場を取っていると 言えると思います。ただ、それを前提にして、あえて何が違うのかというのなら、構造を秩序だてることを選んでいるか、あくまで脱 構築をその配下の次元上で行うか、という違いだと思います。デリダ的な論法に合せるなら、noosphereさんは脱構築を「し 続ける」立場を取っていると思います。それに対し、私は脱構築を「脱構築」する立場を取っているというふうに言えるかもしれませ ん。
2014年03月15日 23:30 by ササクレ
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noosphereさんの指摘を受けて。
私の力量不足のため少し文章が長くなります。申しわけありません。
まず、前提として触れさせていただきたいことがあります。倫理についてです。アリストテレスは、倫理学が扱う分野について数 学と同等の厳密性を求めるべきではないと言っていたと思います。倫理学の対象は、大体、他の仕方であり得ることがほとんどだと思 います。数学のようないわゆる必然的なあり方をしているのではなく、他の仕方であり得るものだと思います。倫理学においては大体 、「多くの場合どうであるか」で満足するべきではないかと考えています。ここで、「必然的でないならば恣意的である」というのが noosphereさんのおっしゃっていることなのかな、と思います。
私は前記の通り、倫理学の対象については、数学的厳密さを求めるべきではないと考えていますので、基本的に、noosphe reさんが言うように「万人が認めざるを得ないような真実とか真理と言ったものは存在しない」というのと同じ立場を取っています 。この点について、noosphereさんと私の見解は一致を見ていると思います。
2014年03月15日 23:30 by ササクレ
ニーチェのその一言で全てを纏め上げたいのでしょうか。
それで「終わり」だというのでしょうか。
人間がいくら考えたところで、なぜ人間と言う生物が生まれたのか、善と悪の違いなど一生かけて考えたところでわかりっこないの だと思います。
このトピックのテーマもそうでしょう。
「真実などない」
それは確かにあると思います。
すべてが「恣意的」であるともおもいます。
しかし、それでが悪いのでしょうか? いえ、悪いと言っていないのは分かってますよ?
ただ、私が思うに、「何を前提とするか」によって、答えは無数にあるのだと思っています。そこに「正しい答え」「真実」が存在 するとは思っていません。
ただ「そういう考え方もある」という認識があればいいだけではないでしょか。
ニーチェの言葉でさえ「そういう意見がある」というだけにすぎないのではないでしょうか?
「正しい」か「正しくない」かを求めているわけではなく、「真実」や「真理」を求めているわけでもありません。
人が何を信じ、信じないかなどその人次第ではありませんか。
議論を、意見を打ち切るような言い方に受け取れたので、すみませんが書かせていただきました。
不愉快に思われたのでしたら、すみません。
2014年03月15日 23:27 by 汀
私の考えが理解してもらえてないようなので、
もう少し具体的に説明したいと思います。
・法律では殺人を禁止していない
・社会道徳では殺人を禁止しており、これは現実的には法律より強い拘束力を持つ
・一般道徳が「人を殺してはならない」と人に命令する理由は知り得ない
私の考えは以上のようなものですが、
もっと具体的に考えてみます。
例えば、ササクレさんは、殺人が禁止されているのは
「死ぬのが恐いから」だと主張されています。
おそらく、次のような経緯を想定されているのだと思います。
1) 人々が「死ぬのは恐い」と考えた
2) 1)を受けて殺人を禁止する道徳や法律を作った
一見すると、これは何の問題もないロジックのように見えます。
ですが、私の考えでは、次のような経緯になるのです。
1) 理由はないが、なかば強引に、有無を言わさず、殺人を禁止する道徳ができた
2) 後世の人間が、「道徳で殺人が禁止されているのは死ぬのが恐いからだ」と考えた
こういう考え方は、私独自の考え方というわけでもなく、
現代哲学(哲学の破壊を志向する営み)では、ごく普通の考え方です。
人間文化には無根拠性・恣意性があり、
万人が認めざるを得ないような真実とか真理といったものは存在しないのです。
緋月さんの指摘を受けて。
これは「禁止」という言葉をめぐった解釈の問題であると思います。
はたして、「人を殺せば罰を受ける」という文章が殺人を「禁止」していると言えるかどうか。
まず、禁止していないと考えてみましょう。殺人は罰を受けるが、殺人を禁止してはいない、という場合、これはどのような事態 を指示しているか。この場合、次のように言い換えることが可能です。
「罰を受けさえすれば人を殺してもよい」
では、この言葉が法律の意図として正しいと言えるかどうかを考えます。
法律とは社会秩序を維持するために強制される規則です。なので、殺人が社会秩序を維持するために問題を起こさないかどうかを 考えます。もしも、問題がないなら「罰を受けさえすれば人を殺してもよい」という発想が法律に認められることになります。しかし 、問題があればこの発想は認められないことになります。
また、社会秩序が維持されていることとは社会生活が混乱なく営まれている状態のことです。なので、「罰を受けさえすれば人を 殺してもよい」という発想が法律に認められるためには殺人が社会生活の混乱を起こすようなものであってはならないことになります 。
では試しに、わたしが街に出て適当に他人を殺すことを想像してみます。この場合、殺人によって周囲に混乱が生じることが予想 されます。さらに私以外の人たちも殺人を行うことを想像してみます。混乱はさらに大きくなることが予想されてきます。ならば、「 罰を受けさえすれば人を殺してもよい」という言葉は現実的に社会秩序に混乱をもたらすと考えられるので、法律には認められない、 ということができます。
よって、殺人は「禁止」されていない、と考えた場合、上記の矛盾が起こるので、殺人は禁止されていないとは「言えない」こと になります。結果的に「殺人は法律によって禁止されている」ということができます。
ただし、この規則には例外があります。それは殺人が社会秩序を維持するのに貢献すると思われる場合です。この場合の殺人は「 死刑」と呼ばれ人々に認められています。死刑は今のところ日本においては禁止されていません。その意味で死刑は普通の殺人とは区 別されます。死刑執行者が罰を受けることはありませんので、罰と殺人の関係を考えた場合、このケースは除外することができます。
2014年03月15日 10:29 by ササクレ
ササクレさんの文章の中に「法律で殺人を禁止」というかいてありますが、正確に言うと違います。
法律には「人を殺せば罰がある」という書き方をしています。
禁止をしているわけではないのです。
効果的にはそれを促進する面はありますが、まあ、流れがあったら逆流したいという変わった人もいるのも、確かじゃないでしょう か。
そういった人は「罰せられても構わない」ので「人を殺す」わけです。
確かに、色々と考えを掘り下げると、この「法律で殺人を禁止している」ということもできます。
しかし、「罰がある」ということが「禁止している」という表現につながるのかと言われたら、それも違いますよね。
あくまでも、「人が人を殺さない」効果を促進しているにすぎないのです。
つまり、あくまでも法律でまず述べられていることは「殺人をすれば罰せられる」と書かれてあるのみで「禁止」されているわけで はない。
それには確かに「禁止」を期待した側面も含まれるが、効果の促進に過ぎない。
罰せられてもいいなら、人を殺すという選択肢もある。
まあ、わざわざこんなことを訂正する必要はないでしょう。
それに、私が述べたことが正しいとも限りません。
そもそもとして、私が述べたことは皮肉れ者の考えですので、お気になさらず。
間違っている部分がありましたら、遠慮なく申してください。
あ、ササクレさん以外の方でも、遠慮なく^^
2014年03月14日 23:33 by 汀
死ぬのが恐いからだと思います。相手が恐いと思うことを相手にすることを許せば、自分が殺人の対象になって恐い目にあうかもし れない。それが嫌なので、人を殺すことがいけないと決めることで、恐怖をおさえているのだと思います。恐怖に震える手つきではい い仕事ができないので、そのように取り決めることで社会の生産性を保っているのだと思います。
あとは、相手の痛みを想像できるから、という線もあります。多分街中で誰かが自分の喉元にナイフを突き立てたら、周りで悲鳴 が上がると思います。それは周りの人々が自分のものではない喉になんらかの共感を持っているからだと思います。自分の喉にナイフ が刺さったわけではないのに、その強烈な痛みが衝撃となって想像されてくるのです。
以上の観点から、自分の苦痛と相手の苦痛を避けるために、法律で殺人を禁止することになるのだと思います。
2014年03月13日 22:46 by ササクレ
4.積極的に「何か(生命)を殺す」理由、積極的に「何か(生命)を殺さない」理由は?
A.積極的に「何か(生命)を殺す」という行為には、己に「益」があるからそれを行う。
逆に積極的に「何か(生命)を殺さない」という行為もまた然りである。
さらに人間の場合、この「益」が何であるかを考えるのは人間の「理性」である。
ex.
積極的に「何か(生命)を殺す」→殺人、殺すべき存在を殺す
積極的に「何か(生命)を殺さない」→殺せる状況であるにもかかわらず殺さない
消極的に「何か(生命)を殺す」→人が家畜を殺す
消極的に「何か(生命)を殺さない」→何があっても何も誰も殺さない
これら四つの中で確実な「益」があるのは上から三つのみである。四つ目は、何の「益」もない。
5.「益」とは?
A.自分とは異なる存在から抽出することができ、それを己のものとすることができるもの。
→上の四番目は、「益」は自ら発生させなければならない。嬉しいだとか幸せだとかいうものは、自らが感じ取らなければ分からな いものである。「嬉しい」だなんて、何を以って「嬉しい」と感じるのか、判断するのか。その根本は快楽という欲、本能に由来する のだろうけど、
「嬉しい」を「嬉しいこと」だと認識するには、やはり自らそう判断しなければならない。
2014年03月13日 04:54 by 汀
1.「殺す」という行為の理由、意味は?
A.「殺す」という行為は「生き残るためのシステム」だから。
生物の場合、本来「同属(同族)ではある存在を殺す」という概念は基本的に存在しない。
逆に、「異なる存在を殺す」のは当然でそれは「本能」である。
これは人間にも当てはまることである。
→人が家畜を殺して食するのはまさにこれに当てはまることだろう。
2.「同属(同族)」の判断基準は?
A.生物の場合は本能。しかし人間の場合は、理性。
→逆に、あなたは友人をどうやって決めてのだろうか? 気分や直感もあるだろうが、大抵は「考えて」友人を選んではいないだろ うか?
3.どうして異民族通しで争い、殺し合いがあるのか?
生物の本能として、同じ形をした存在を「同属(同族)」判断してますが、理性で「異なる存在」と判断してしまえば、相手は言っ てしまえば「殺すべき存在」なので本能によって「殺す」という至極当然の結果になる。
→考えの合わない同士がいつまでも仲がよくならない根本は、互いを理解、共感、ここでいう「「同属(同族)」の意識がないから に他ならないと言える。
2014年03月13日 04:53 by 汀
「規範として「人を殺してはいけない」と
事実として「人を殺す・殺さない」は別次元のもの。」by misa(引用させていただきました)
これを見て「確かに」と思いました。
くだらないし、きっと「理想」の答えではないとは思いますが……。
「人を殺してはいけない」のは、「自ら益を見出す」ということが人間の本能としてあるため。本来の本能に反すること、つまり「 他から益を見出すこと」は受け入れられないので、そもそもとしてそんな疑問は抱かないはず。
もし、恨み事があって人を殺したいほどに憎らしいと思い、実際それを行ってしまった時点で、あるいはその一時、その人は人では ない。また、規律に縛られた人間も同じことが言える。その場合、人と言えないが、生物とも言えばない。
そもそもとして「なぜ人を殺してはいけないの?」という疑問は浮かばないはずないのだが、それを思うというのは、「人を殺す」 という行為をしている人を「人間」と認識しているからである。
参考程度になればいいなと思います。
次に何をどう考えたのかを載せときます。
2014年03月13日 04:52 by 汀
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