なぜ人を殺してはいけないの?
よくきく この問い
皆さんはどう考えるのか教えて頂けると嬉しいです。
私は人生経験がまだまだ少ないヒヨッコです。
皆さんの考えを糧にしていきたいと思っています。
よろしくお願いします。
様々な視点を網羅していておもしろいですね。
こういう視点もありますよね。
わたしの祖父は刑務官で何度も死刑執行にたずさわりましたが、
晩年までそれを悩みつづけ、
再晩年には、祖父が殺した死刑囚たちが、祖父を迎えにきました。
錯乱しつつ家族を守ろうと懸命に幻影と戦う祖父を見て、
幼心に、人を殺すということは、その人の過去と、
生きたであろう未来、つまり命そのものを背負うことなのだ、と
慄然とした記憶があります。
人一人の命、到底、背負い切れるものではないのでしょう。
快楽殺人者は別なのかも知れませんが。
2013年06月09日 23:48 by 偕誠
なぜ人は自然を粗末にしてはいけないというのか。
自然がないと生きていけないからではないでしょうか。
なぜ人は人を殺してはいけないというのか。
人がいないと生きていけないからではないでしょうか。
他人の命がなくても自分は生きていける?
そんなことはない。
物理的にも精神的にも不可能です。
人が生きていく過程では、無力な期間が長くあります。
生まれてから、乳幼児期、そして高齢期。
他人の手なしには生きていけません。
成人期は、彼らに手を差し伸べる側に回ります。
しかし、今成人期にいる人々であっても、かつて赤ん坊の時代があり、将来老人の時代が待っています。
それから、精神的な面でいえば、人を死へ追いやるのは孤独です。
おそらく物理的に一人で生きることが不可能であるから、精神的にも孤独を苦痛を感じるようになったのではないかと思いますが。
物理的には何の不便もなくとも、この絶望感に打ちのめされて自ら死を選んでしまう。
さびしくて死んでしまうのは、ウサギではなくて人間なのです。
物理的にも、精神的にも、人の存在がないと生きていけないから、
人を殺してはいけないとされるのではないでしょうか。
2013年06月07日 12:32 by misa
簡潔に書くと「社会を形成し、みなが相互に利益を得るため」です。
もし殺人が認められた社会があるとしたら、非常にストレスの溜まる社会になると思います。想像してみてください、いつ殺される か分からない世界で安心できますか?
逆に言えば社会を形成しようとしなければ殺してもいいのかも知れません。
しかしそうだとするなら、殺そうと思う人は今の社会から利益を受け取ってはいけなくなります。
なぜなら社会を形成しない(相互に利益を出す気がない)というのに人からただ利益を貰い続けるなんていうのは矛盾しているから です。
なのでそうゆう人を殺してもいい世界がありえるとすれば誰からも援助を受けない、社会を形成できないところだけでしょうね。
2013年06月04日 23:34 by エイドリアン
世の中で一番尊いものだからです。
私たち一人、一人には約21億人もの ご先祖様たちがいて、
その21億人の中のひとりでもいなかったら、
今のあなたはこの世に生まれていません。
さらに、そのご先祖様たちは我が子を愛おしく想い幸せを願って
やっとあなたや私たちが存在しています。
これは、相手も同じです。その人の現世での態度や考えはどうあれ、
命の重みは計り知れないものがあります。
すべての生き物に同じことが言えます。
もし腹の立つ人間がいたなら、このことを思い出してください。
自分の存在とは稀のなかの稀、奇跡の中の奇跡ということです。
もっと大切にしたいものですね。
2013年06月04日 11:27 by noobuu
NGな理由は、法律的なものだと思います。
ひと、ひとりひとりの能力は異なるので
国家主権が、裁定をする以外は
勝手に殺しあってはいけない、と言う事で
その国家主権は、国民ですから
国民みんなが殺していい、と思うなら
誰かを殺してもいい、訳です。
そういう事はまずないでしょうけれど。
2013年04月15日 14:52 by mamedai
こんにちは山本と申します。
書こうかなと思ったことは、noosphereさんの2012年11月26日のコメントに書いてありました。汗
・殺してはいけない
・殺しても良い
という2つで捉えると、たぶん迷子になるんだと思います。
そうではなくて、
今までたくさん、世界でも、日本の中でも、
人を殺すことで、自分や家族や限られた仲間たちの利益や安全を手に入れたり、
人を殺すことで、この国をもっと良くしようと考えた人たちもいました。
もっともっと個人的な理由で人を殺す人は、現在の日本にもいます。
「そういうのはやめよう」
という願いが、現在の法律に宿っているのではないかと思います。
多くの人が、人を殺さなず「何か別の手段」で、
夢や目的を達成するようになるように、罰を設けて殺人を防止する。
法律というのはそういう仕掛けなのではないでしょうか。
大切なのは、良い・悪い という得体のしれない“答え”ではなくて、
「やめようよ」
という、人々の、“気持ち”なのではないでしょうか。
それは自分がどう解釈するか、という事に加えて、
一緒に生きている周りの人も含めた広い概念だと思います。
自分でお米とキャベツを育てて、自動車を組み立てて、音楽も作曲をするような、完全無頼の自給自足生活はあり得ません。
みんな、だれかの「おかげさま:なんですよね。
2013年02月16日 13:19 by ことばおいてたひと
アナタに 殺されたく無いから
因みに 大まかに
ブログテーマ 言えば
人の
不思議ナ精神世界
潜在意識 夢 とか
それと社会との関係
他 日記的に詩 など
デス
2013年02月07日 15:19 by とみぃDM
簡単なことです。
自分に置き換えて、自分が誰かに殺されたいと願うのか。
誰だって殺されたくないからです。
キリスト教的にいえば「汝の隣人を愛せよ」
仏教的に言えば、日本に伝わる仏教の根本理念「慈悲喜捨」
すなわち「慈」とは他人の幸福を願い、「悲」他人の不幸を取り除き、「喜」自分の仕事に心から満足し、「捨」そしてその思いに とらわれない。(渡辺照宏先生より抜粋)それに当てはまらないからだと考えます。
2013年01月01日 22:19 by 大渓水
やっぱり安心して生きるっていう、人間の欲求の一番下の部分が満たされないと、将来に希望ももてないし、周りの皆を疑いながら生 きていくような殺伐とした国になってしまうからかなと思います。
2012年12月15日 08:42 by しら ちえ
法律では人を殺すことを禁止していません。
日本の刑法第199条には以下のように規定されています。
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」
罰則が規定されているだけであり、
これを殺人を禁止しているものと受け取るかどうかは
これを読む人次第です。
では何が殺人を禁止しているのか?
それは道徳であり、倫理です。
世間一般の道徳は、人を殺してはならないと教えています。
では、一般的道徳はなぜそのように規定しているのか?
人間社会には、
さまざまな道徳・法律・政治・思想・哲学・宗教・文化が存在します。
これら全てをひっくるめて「文明」あるいは「文化」と呼んでもいいかと思います。
これら「文化」を考えるうえで重要なのは、
それが全て人間が考え出したものである、ということです。
人間が考え出したもののほとんどは、
恣意的に考えられたものです。
これを文化の恣意性、あるいは文化の無根拠性といいます。
一般道徳が殺人を禁止している真の理由を突き詰めていくと、
この文化の恣意性・無根拠性にぶち当たります。
つまり、殺人を禁止しているのは、究極的には、
たまたまそのように決められたに過ぎない、と言うほかありません。
この恣意性・無根拠性をさらに掘り下げていくことはできません。
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