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なぜ人を殺してはいけないの?

よくきく この問い
皆さんはどう考えるのか教えて頂けると嬉しいです。
私は人生経験がまだまだ少ないヒヨッコです。
皆さんの考えを糧にしていきたいと思っています。
よろしくお願いします。

2012年05月28日 01:07  by 

コメント一覧 68件中、51~60件表示

  •  では僕はごく形而下的に。

     我々は、痴情のもつれ・家庭内の不和・何らかの事件に巻き込まれて、簡単に三面記事に載ることが出来ます。少しばかり好戦的 でさえあれば、あとは条件次第で幾らでも殺人者への道は開かれています。僕であれあなたであれ、傷つけあった相手がたとえ恨みを 抱えたままでもとりあえず離れていってくれたから、喧嘩のここ一番で自分を抑える理性を大事にすることが出来たから、運良くブロ ック塀に頭をぶつけなかったから、何より良い人々との交際を心がけているから、今こうして自分の部屋にいることが出来ます。

     誰だっていつでも人を殺すことが出来ます。
     火曜サスペンス劇場ではたいていの場合、加害者は潮風薫る崖っぷちで刑事に愚痴を聞いてもらえるばかりか罪を償えば許される 存在として扱われます。そんなふうに筋書きを立てれば、やむをえない事情をそれぞれ用意することができる。ヤクザに憧れていた男 なら、これでハクがつくと思うことでしょう。単純に病気のせい、というのもあります。ただ楽しいからというのも。

     もし唯一絶対の人を殺してはいけない理由があっても、人を殺す理由は本人がそれと認定すればそれもまた揺るぎない信念となり ます。その時の彼にとって、人を殺してはいけない理由なんて念頭にはありません。どんなに理屈が穴だらけであろうと自分の殺人の 正当性が彼自身に信じられていればそれは正しいことになってしまう。

     ここで↓の投稿者の方の問い返しが重要になると思います。

     何故、殺したいのか?
     この問いからもし、人を殺してはいけないらしい様々な理由を思い出すことが出来て、なおかつ、そのうちの一つでも彼に働きか けることが出来れば、それが彼にとって人を殺してはいけない唯一絶対のそして“自分自身で守るべき”理由となり信念となることが 出来ます。
     例えばさんざんに虐待され世の中を恨む人物にとって、社会のどんなルールであれそれは彼を守るためのものではなく、なので守 る義理もありません。人を殺してはいけない理由が一つなら、彼は他のルールと同じくその一つを軽視することでしょう。彼の目につ くところで、彼を包み込む何ものかが、彼にとって守るべき“人を殺してはいけない理由”を用意できなければ、彼を止めることはで きません。
     多くの芸術によって試みられていることの一つです。

    2012年09月20日 04:58 by

  • 最後に結論として

    「なぜ、人を殺してはいけないのか」という問いに対しては

    「なぜ、あなたは人を殺したいのか」と返します。

     その人自身の問題という認識なしにあらゆる答えは無効だと思います。

    2012年09月12日 12:51 by

  • 続きになりますが…

     殺人をしないのは「本能」かもしくは、人間の長い歴史の中で遺伝子に刻み込まれたものだから、という発想はまさに神なき現代 の新しい科学という名の神でしょう。神が本能に変わっただけで「なぜ?」には答えていません。神の時代と同じく「そう決まってい るから」と言っているからです。法律に頼る行為もそうです。「法にかかれているから」と。しかし、偉大な力や本能や国家権力の規 制や禁止がないと人は何も決められないというのは非常に情けないことであるし、また非常に怖いことであります。
     神に依れば、無宗教の殺人は正当化されますか?人間は本能の壊れた生き物です。殺人はいけないという本能が壊れない保証はあ りますか(実際にはこれは本能ではないのだが…)国家の定める法に直接「殺しちゃだめよ」と書かれていなったら正当化されますか ?
     私たちはそういうものに頼らずに、自分なりの倫理観を身に着ける必要があります。誰かが決めたからではなく、「自分はそう思 うから」とはっきり言う必要があります。たとえ法に定められていなくても「自分はそう信じている」と言い切れるものを持っている 。それが私の思う民主主義の大原則でもあります。

     では、神の制約のない今「何故?」にどう答えればいいのでしょう。
    私はここでは心理学者エーリッヒ・フロムの「悪について」という本を用いてその問いに挑戦したいと思います。フロム曰く「生き ることは技術だ」と言います。すなわち生きるのにも上手下手があり、成功と失敗があり、つまり「幸福」は主体にのみ存在する「幻 想」ではなく、客観的な事実に基づくと信じている人です。彼が言うには、人間は「生を愛する傾向」と「死を愛する傾向」を誰しも 持っている。生を愛する傾向が弱まれば、死を愛する傾向が強くなり、人を殺したいなどの行動に現れる。それを自覚して、日々生活 することが大切であるとフロムは言う。それがまさに心の葛藤であり、人間らしさであると。葛藤の無いものは神か極悪人であると。 まさに自分と闘い続けることが殺人という不幸を生まない、唯一の方法と私も思っています。心には常に水をやること、それを怠れば だれでも心は枯れてしまいます。それが誰でも犯罪者になり得る理由なのではないでしょうか。
     

    2012年09月12日 12:48 by

  • お邪魔させていただきます。

    「なぜ人を殺してはいけないか」
    に対し、法律や憲法で定められているからと思っている方がおられたらまずそれは誤解です。法律では殺人を犯した場合の刑罰の重 さを書いてあるだけです。
     つまり、法に記されているから守るという理屈は、厳密にダメと書かれていないから良いという理屈を生みます。第一、禁止した ところで起こるのが犯罪なので、法を頼りにすることは、「殺したいけどそれにはリスクが高すぎる」という選択肢を生み出すことで 殺人行為を認めるも同然です。

     まずこの問いかけは、どの時代に生まれたのでしょうか?
    私はそれは現在の資本主義の時代に入ってからのことだと思います。それ以前の中世では法よりも厳格な宗教が、「殺人を罪」と定 めていました。神様がそう決めていたので、なぜ?という問いには「神様がそうおっしゃるから」ですんでいました。問いかけ自体も 無意味とされたでしょう。また宗教はそうした戒律を提示することによって、人間の生活や思想を一定に抑えることが、人間にとって 幸福なのだろうという時代だったのです。それが産業革命や近代化は科学的に宗教の持っていたベールに包まれた部分も明るみに出し ました。有名な「神は死んだ。」という言葉は、喜びよりも不安の方が大きかったことでしょう。ドストエフスキーの「罪と罰」もま さに時代の流れによって消えかかる倫理感への不安が描かれています。
     科学は例外なくベールをはぎ取ったので、人々は丸裸状態になります。その状態を端的に表したのがこの「なぜ」の問いかけだっ たのでしょう。神が死んだ今、人は何を頼りにものごとを決めるか。ということです。

    2012年09月12日 12:08 by

  • コンニチハ、新参でございます
    私個人の建前上の意見としましては、「同族との協調性」ということをまず言っておきます
    人間は、群れをなす動物ですので、生きて行くには共に助け合い、戦う事が必要となってきます
    また、新約聖書や宗教関連としましては「元は血の繋がる兄弟である」とよく言われてますね
    協調性の欠けている者はむろんおりますが、それでも各々の役割を担っていると考えています


    また、このように考えてもおります
    「人間も食物連鎖の輪の中にいる」
    これは、豚も牛も殺されたとしても、
    食べたものの血となり肉となるために殺された、という道理の元で殺しが行われています

    私が言いたいのは、殺したのなら道理に元に殺しを行え
    つまりは、食べろということです

    私個人としては、殺しても良いが、法律で縛られてるから殺せない
    または食べ物が充実しているから殺さない、という意見でございます


    論述が下手くそな上、危険思想ですいません

    2012年08月23日 01:28 by †ムゥ†

  • 3.
    それでは、何故戦争で他国の人を殺して問題ないかと言うと、現代では我々の属す社会の最上位に位置する国家(例えば日本)が殺 人の権利を保持しており、異なる社会である他国の人民に対してそれを行使するからです。
    兵士とは国家の持つ殺人権の臨時代行者です。
    そのため、兵士が自国民を殺すのは最悪の手であると見られるのです。
    沖縄戦で旧日本軍が沖縄県民に自決を強要したのが批判されるのは、これが要因です。
    兵隊はその成り立ち的に、自国民を殺すことがあってはならないのです。
    殺してしまえば、殺された側の社会におけるアイデンティティが揺らぎ、国家に対する恨みとして噴き出します。
    それが順守される限り、我々は無駄に人の命を散らすことなく社会を守っていけるのです。

    最後に、人を殺した際の罪について述べさせてください。
    人を殺せば罪になります。
    当たり前ですが、何故でしょう。
    誰もが思いつくのは、その人の全ての未来を、希望を勝手に断ち切ったから、という理由です。
    それは確かに罪です。
    ですが、私にはこれに隠れてもう一つの罪があるのではないかと考えています。
    それは、上で述べた国家の持つ殺人権の侵害です。
    これが侵されることは、社会の安定を揺るがす一大事であり、よってその当事者には最も重い罰である死刑のイスが用意されるので はないでしょうか。

    なんにせよ、人を殺すということは、自分を殺すボタンを押したということです。
    その効果がすぐさま発動する訳ではありませんが、ボタンを押したとき既にその人は死んでいるのでしょう。
    だから、人を殺すことはいけないのです。命は大事に。

    長文で失礼しました。

    蛇足ですが、マリさんの仰る、もし宇宙人が攻めてきたら~、
    という意見はニヤりとしました。
    でも、勝ったら勝ったでその後の事を想像すると、分裂や裏切りが頻発しそうで暗澹とした気持になりますね。

    2012年08月20日 23:01 by 遠宮慎行

  • 2.
    では、比較的ムラの独自性が強く、食料自給もムラ内部でおよそ完結していた近世以前の農村ではどうでしょう。
    ここには赤の他人はほとんどいません。
    ここならば気に入らない人間を好きに殺せるか、というと、やはり無理でしょう。
    どう考えても、現代と同じように他人を、家族を猜疑の目でしか見れなくなります。

    さらに、殺す、殺されるの関係が当事者間だけで収まればいいのですが、人を殺すことが認められている社会では、家族を殺された 人、友人や恋人を殺された人などが相手を必ず殺しに行くでしょう(そんな愛情があれば)。
    現代でも法が認めていないだけで、それを願う人は多いと思います。
    殺人の連鎖は、恐ろしい勢いで社会や共同体の人的、資源的プールを消耗させるはずです。

    よって、たった一人の殺人を認めるだけで、その社会は簡単に崩壊してしまいます。

    このことから殺人の権利は、その時の最上位の社会がこれを保持しなくてはならないのです。
    個人が持つことは許されないのです。
    私たちは古来、共同体に属する時、または作る時に、殺人の権利をその共同体に委譲するようになったと考えてよいでしょう。
    そして、暴力の向きを全てその外側に向けるように統制したのです。
    社会や共同体、ひいては自分自身を守るために。
    それが定着していった理由は、まさに南の島のダーウィニズム万能論者さんの言うプロセスを通してでしょう。
    暴力を共同体の内側に向けるがゆえに共同体に属せなかった彼(彼女)は、一人では生きていけず淘汰されたのです。

    2012年08月20日 22:55 by 遠宮慎行

  • はじめまして、遠宮とも申します。
    この問題は、昔から多くの人が一度は考えるけれど、喧々諤々で結論のまとまりにくい非常に微妙な問題だと思います。
    私としては、社会の維持、安定のため、個人の生存上のリスクを上昇させないため、という二つの問題が絡んでいると考えています 。
    今までの発言者の方と同じような意見なので、目新しさはないと思いますが、一応発言させていただきます。

    まず、どのような理由で人は人殺しに走るのでしょうか。
    ネットには数多くの人殺しに関する記述が存在します。
    有名なものを拾い読みするだけでも、各人が人を殺すに至った理由がわかると思います。
    特に多いのはやはり怨恨でしょう。
    他に金のため、痴情の縺れ、性的欲求、政治、宗教によるもの、精神障害、なんとなく好きだから。もちろん事故もです。
    と、色々な動機が彼(彼女)を殺人に走らせたことがわかります。

    彼らは大体捕まったために、我々は「ふーん、そんなことがあったんだー」と言えますが、誰も彼らの行為を罪と認めなかったらど うでしょう。
    そんな社会が存在したらどうなるでしょう。
    道を歩くと、右も左も人殺し。
    おまけにわたしも人殺し。
    余りに多すぎて、その理由も様々。
    いつ自分も些細な理由で殺されるかわかりません。
    自宅にいても宅配便が来るたびに心臓が飛びはね、友人に「金貸してくれ」と言われたら「あ、俺終わった」と思うことでしょう。
    そんな世界にはだれも住みたいと思いません。
    不特定多数の誰かと顔を合わせる機会が多い現代の社会では、赤の他人をある程度無条件に信用することが生存上不可欠なのです。

    2012年08月20日 22:54 by 遠宮慎行

  • 自分が死にたくないからだと思います。
    そのために人間は「こいつなら大丈夫だ」と思えるようなコミュニティを結成し、
    内部に対しては法や道徳で「仲間を殺してはいけない」という決まりをつくり、外部に対しては戦ってきました。

    >>南の島のダーウィニズム万能論者 さんも書いていますが、
    自分が生き残るために、人間は仲間を必要とする生き物ですから。

    その「仲間」の領域が「村」だった時代は村同士いくさをしましたし、
    「家」だったときは家同市の抗争が起きましたし、
    「人種」になったときに人種差別が生じ、
    「国」が誕生したとき戦争が起こりました。

    が、すべての事例においてはっきりしているのが、
    自分が認識しているコミュニティの内部の人間を殺すことはしないってことですね。
    人食い人種さえも、食べるのは外から来た「よそもの」の人間だけだけだそうです。

    生きるためには「仲間」が必要
    だけど、「仲間」をつくるには共通の「敵」が必要

    こうしてお互い殺しあってきた人間ですが、
    時代が進むうちにだんだんとその規模が拡大して、戦うにしてもルールを決めないと全滅してしまう状況が生まれたんでしょう。兵 器の進歩です。
    それで今は、お互い自分が死なないように、国際的には条約や協定なんかでルールをつくって縛っているのではないでしょうか。

    なお、国際法に「戦争のルール」がある以上、「人を殺してはいけない」という道徳は未だに国というコミュニティの中でしか、完 全には機能しないものではないかなと思います。

    余談ですが、もし宇宙から侵略者がやってきたら、自分たちが生き延びる必要性から、「ヒト」コミュニティは未だかつてなく結束 するだろうと思います。笑

    2012年08月19日 10:34 by マリ   

  • はじめまして。

    いろいろな解法・説明法がありますよね。
    いま私のブログでは勉強論をつづっていますが、
    それ以上に多くの解答がある難しい問題です。

    とりあえず今日は「そう言わないと、いつか人を殺してしまうから」と言いたいと思います。
    昨今の無差別殺人や、いじめ殺人を見れば分かると思います。
    我々の心は案外もろく、道徳や法を使ってでも守ってやらないと壊れてしまうのです。

    しかし、このテーマについてはいくつもの書籍がありますので、
    お読みになるのも良いかと思います。
    (「何故人を殺しては」等で amazon で検索)



    2012年07月23日 00:24 by 蘍(いさおる)

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