なぜ人を殺してはいけないの?
よくきく この問い
皆さんはどう考えるのか教えて頂けると嬉しいです。
私は人生経験がまだまだ少ないヒヨッコです。
皆さんの考えを糧にしていきたいと思っています。
よろしくお願いします。
「いけない」という言葉は、誰かが誰かに禁止を要請する言葉です。
要請を無視しうるかどうかは関係ありません。
殺人は物理的に『できない』わけではない、だからこそ『いけない』と禁止するのです。
「殺してはいけない」と発しているのは社会。そしてそれに従わない者には制裁を加える。
ただそれだけのこと。これが『いけない』ということです。
なぜ社会がこのような要請を構成員にするかと言えば、殺人などの集団を乱す行為が頻発すると社会が不安定になるからでしょう。
一方で、この殺人等の行為を排除しようとする衝動はヒトの本能でもあると思います。
ヒトのように集団を形成することで生存確率を上げてきた生物は、仲間を攻撃する行為が頻発すると、集団の維持が難しくなるため 、 これを抑制する本能が備わっているのだと思います。
ヒトの祖先は群れを作ることで生存確率を上げました。
仲間同士がむやみに殺しあうことが群れにとって損だから、それを抑制する本能を獲得した生物が生き残り、そうでなかった生物は 淘汰されたのでしょう。
我々ヒトは、その生き残った生物の子孫で、その性質を多少なりとも引き継いでいるから、殺人に否定的な感情を抱く個体が多数を 占め、このような社会からの要請があるのだと思います。
社会契約説というは、ヒトになるずっと前になされた契約なのではないでしょうか。
2012年07月21日 03:55 by 南の島のダーウィニズム万能論者
人を殺してはいけないと憲法にかかれているかじゃないですか?
別に戦争になれば殺さないとおかしい、となるでしょう。
今だって犯罪者を国が死刑という刑を使って堂々と正義の名の下に殺しているじゃないですか。
人を殺して食べる習慣がある民族だっていますよ。
ただ平和な社会では少なくとも仲間を殺すのはよしとされないでしょう。
敵という認識であれば許されるかもしれませんが、そもそもほ乳類の中で飢えを満たすため以外で同胞を殺すのは人間くらいだと思 います。多分人間というのは恨みなどの感情があるぶん、他の動物よりも残酷な面があるんですね。しかし一人で生きていけるほど強 くもない。そうした場合仲間内で殺し合い滅びてゆくのを避けるために仲間を殺してはいけないろいうルールが自然とできるのでしょ う。そしてその仲間というのは戦争になれば相手の国は敵になるという風に社会の中でぐらぐらと変わっていくものなんだと思います 。
今の日本は平和で世界中の人を仲間であると社会が認識しているから人殺しをしてはいけない、という考えがあるんだと思います。 もし本当に平和なら・・・そもそも人を殺してはいけないというルールなど無くても誰も人殺しなんてしないんじゃないかな・・・
2012年07月13日 14:51 by 狐さま
4
ですからその負の影響力が出てしまうために人を殺してはいけないし、
可能な限り生きている人間は全て守らないといけないと考えます。
例えば、豊臣秀吉は太閤になったとき、
自分の村の税金を免除したのですが、
自分をいじめた相手だけはそれをしませんでした。
殺したら可能性は全ておしまいです。
でも生きていれば何らかの可能性はでてくることもあります。
復讐をするにしても秀吉のようにそのときはしないで、
ひたすら自分を高め後でもっと規模の大きな復讐をするほうが、
私の宗教意識と目的にとっては理に適うのです。
将来、科学が発達して死後どうなるかが明確に判明したら、
人間はやり直したいときに
一度体をリセットしてもう一度やり直すような時代も出てくるでしょう。
環境によって道徳は変化しそういう環境では、
殺すという考え方にもかなりの変化がでてくると思います。
私の考えは以上です。ありがとうございました。
ところで今回コミュニティというものに初めて参加し、
初めて書き込んだのでこんなに長く書いていいのか良く分からないのですが、
どうなのでしょうか。
長くなる場合は自分のブログにリンク張ったほうがいいのでしょうか。
2012年06月13日 15:10 by 春風梟
3
だから人間のように生きるし死にます。
自然現象や植物といった類だとそのまんまでは付き合いにくいから、
神という名の擬人化を施すことでイメージを固めたのです。
それらの神とも仲良くすればお願いを聞いてくれるだろうと
日本人は考えたのです。
だから西洋で言ってる神というのとでは全く違いがあります。
実際に日本の江戸時代では、
犬も猫もそこらにいて社会の構成員だったし、
鳥も人間が殺さないものだからよってくるような社会で、
また植物が自然と都市に溶け込んでいる
植物と人間が共存する珍しいタイプの都市でした。
今でも日本人にその傾向はあります。
日本人ならば友達ならば殺したくないと思うのは、
理屈がいりません。
何故人を殺してはいけないのかというところで考えると、
相手が友達ならばそうしたくないからと思うところが、
その答えに近いのかもしれません。
ただそれはたぶん人によって異なるだろうし、
絶対的な答えはこの問いのみならずありえないと思います。
これまで私が書いてきたのも一つの仮説であり一つの解釈に過ぎません。
違う人から見れば同じものを見ても違う仮設があり解釈があるのも当然です。
私自身どうして人を殺してはいけないのかという答えは出ています。
それは私の目的からして人を殺すことは目的から遠ざかるからだと考えます。
私は宇宙平和というものを目指してるのですが、
その考え方の基点として人間にはそれぞれ価値感があり
その力の働く方向として、影響力というものがあると考えてます。
この影響力が他の価値を活性化させる方向に働けば、
宇宙に活力の高い影響力が駆け巡り宇宙平和が成り立つと考えてます。
どういう理由にせよ人を殺すというのは、
相手にも家族があり負の感情は必ず出ます。
4へ
2012年06月13日 15:10 by 春風梟
2
道徳の二面性があったのです。
今日本で言われている人を殺してはいけない。というのは
実際には西洋のキリスト教から来ているヒューマニズム的な論理です。
もっといえば国益主義的な戦争の肯定もそれの影響が強いと私は思ってます。
ヒューマニズムというのは人間が最も尊くて、
次に偉いのは猿だとかでその次は・・・みたいにピラミッド化を作って、
自分たちが絶対に偉いとする考え方です。
元々そういう考え方は日本人に馴染みにくい考え方です。
人を殺してはいけない理由は彼らにしてみたら、
人間は神が作られた最も尊いものなのだからという理由で
十分納得いくし感覚的に腑に落ちるのですが、
日本人はそれでは大体人が良く分からないです。
今でも明確に自信を持って絶対に人を殺してはいけないといえる日本人は
年齢の高い人ならともかく若い人ではあまりいないかもしれません。
日本人は家畜を殺すのを嫌がりました。
一緒に暮らしていると家畜も家族のようなものと考えるからです。
しかし西洋の人はがんがん殺します。
日本も最近そうなってきて家畜も殺すし森も伐採します。
日本人は元々そういうものに関しても仲間意識があって、
家族のような間柄でした。
親しいものだからできる限り殺したくない。
それは人間に対しても家畜に対しても植物に対しても同じことです。
情が移るのですがこれは宗教的にいうと、
万物に神が宿るという考え方で八百万の神がいるのだという意識です。
ここでいってる神というのは
西洋でいうところの精霊に近いニュアンスがあります。
だからそういう意識で
もう一度日本人が自分たちの宗教意識に基づいて社会を構築すれば
何故人を殺してはいけないのかも魂から腑に落ちて分かるのです。
この場合魂というのは、先祖からの思考の癖だといえます。
日本でいってる神というのはイメージでいうところの、
擬人化のようなものです。
3へ
2012年06月13日 15:08 by 春風梟
始めまして、こんにちは。
春風と申します。よろしくお願いします。
道徳というのは突き詰めると
その時代の統治者が人民を統治するための知恵といえます。
また人民のほうもそれを守ると都合が良いから
道徳という名前でお互いを縛るのです。
今回は何故人を殺してはいけないのか。についてですが、
それは実のところ国によってというよりは
宗教意識によって若干ニュアンスが異なります。
ただ大雑把に言えばそれは国という枠組みの中で、
国益というものを捉えた場合貴重な労働者や兵士を殺すことは、
結局国民にとって悪であります。
我々の目的は我々の国を絶やさないことであり、
国家に属している限りは建前としてはどうしてもそうなるのです。
そういう意味で人を殺すこれはつまりは自分の国の国民を殺すことは、
悪なのです。
例えば人の国でその国の人間を殺せば裁くのはその国の人間です。
下手をするとそれは国際問題にもなりえます。
だから戦争で相手を殺すのは今の時代で言えば正義なのです。
人を殺してはいけないというのは、
明確に言うと自分達という枠組みがあって
その枠組みの中で有利になる人は殺してはいけない。という意味です。
例えば、日本の場合古くから親の敵討ちはむしろ推奨されていたし、
豊臣秀吉と赤穂浪士の主君を殺された際の敵討ちは、
今ですら絶賛されているではありませんか。
特に赤穂浪士なんか毎年TVで放送されてます。
あれのテーマは場合によっては人を殺してもいいってことなんです。
少なくても日本人はそれに共感を覚えるということです。
時の支配者は当時は幕府でしたが、
統治という面で言えば徳川幕府に逆らったという形になる赤穂浪士でしたが、
武士の論理で言えば彼らは正等であったし、
その主張も幕府が唱えている朱子学の論理に沿った形のものでした。
2へ
2012年06月13日 15:07 by 春風梟
神威さん
ありがとうございます。こんなにも誠実に答えていただき、うれしいです。
心の奥底では分かっているもの
人間の中に本質的に備わっている正体不明の何か
深いですね。私もさらに考えていきたいです。
初めまして、神威といいます。
いや〜これは難しい問いかけだねえ…
私も過去に何度か考えて、結局本質的な結論が出なかった問題でもあります。
なぜ人を殺してはいけないのか、人を殺してはいけないというのは常識で、そもそもこんな問いかけがでること、社会情勢自体が 異常なことだ、といわれることもあります。しかしじゃあなぜそれが常識だと言い切れるのかを考えると、途端に行き詰まる。
もしそれが絶対的な真理と考えるなら戦争などはあり得ないはずで、法律で定められているからだとすれば、その法律を作ったの は人間、特に「支配者」なので、支配者が反乱を恐れ、殺されないために作った支配者の理論なのでは、という論にならなくもないが 、かといって「じゃあ無意味に人を殺しまくっていいや」とそれを実行に移す人はほぼいないだろう。
また命を大事にしなくてはならないからだという観点であれば、殺してはいけないのは「人限定」なのかということになり頭を抱 えるはめになるでしょう。宮沢賢治はこう考えたために最後死んでしまったという話も残っています。
人を殺してはいけないことの理由付けというのはこうも上手くいかないものかといつも思うのですが、どんなに殺してやりたい人 間がいても実際に殺すことは殆どの場合無いし、私も当然やったことなどないですね。
そこで最近はこう考えています。言葉で表せなくとも心の奥底では分かっているのではないかと。理由の説明などできなくとも殆 どの人が口を揃えていうことそれ自体、あるいは兵士が戦場で戦えるようにするためには大体の場合ゲームでの訓練や薬物、狂信など 何らかのマインドコントロールがされていたりすることや、震災の報道を見たり原爆資料館の展示を見たりして悲しい気持ちになった りするのがその証拠でしょうね。
人間の中に本質的に備わっている正体不明の何か。それが人を殺してはいけないと感じる理由なのだろうと考えます。
2012年05月28日 01:47 by 神威
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